話を元に戻すと、つまり自動車への飛び込み自殺は率が少なく、しかも事故偽装が多く、警察は自殺という特定までの調査が少ないし、致死率が低い。従って、純粋な自殺や特攻自殺と判明する遺体数自体が少ない。そして確実な致死率や、他人に掛かる迷惑にもこだわらないほどの狂気的な精神状態の中で自殺を選んでいるという、自殺者の特殊性もある。この様々な条件を満たさなければ、「自動車への飛び込み自殺」という希少な自殺は成立しない。

 ざっと計算してみた。最近の全国のある年の自殺総数は30,229人だった。その中で飛び込み自殺率は2.5%なので総数に2.5を掛けて755人がその年の飛び込み自殺者数だ。そこから国土交通省が公表している鉄道自殺者数の647人を引けば自動車飛び込みの自殺者数が出る。

 108人。

 これがその年の自動車飛び込み自殺数だ。煩悩の数と同じなのが偶然とは言え意味ありげに見えた。1年間で全国で108人。首吊り自殺の20000人と比べると、実に圧倒的少数派だ。しかも自動車飛び込み自殺は事故に偽装するのがセオリーといえる。それを逆になぜ自殺に偽装したのかということになる。殺人はもちろんだが、事故という落とし所にも出来なくてこの希少な自殺方法に偽装しなければならなかったというその理由は一体どんな理由なのか? と、僕はこの1年間に全国で108人という数を見ながら考えた。

 関係者は2人? それとも3人? 死者、運転者、そして犯人? この犯人と運転手はかぶっている場合もある。事故だったら過失でドライバーが罪に問われる。殺人なら過失ではなく犯罪だから隠蔽したいのは当然だろう。自殺だと証明出来ればドライバーの責任は回避される。とは言え、突発的な事故を起こしたドライバーの証言のみで自殺であることを主張して通るはずもないだろう。自殺であることを調査し特定出来るのは警察以外には存在しない。目撃者が居たとか、遺書があったとか。

 そこまで考えて、何か僕の脳裏にザワザワと嫌な感じが広がった。それはいくつかの可能性の中のひとつの推論に過ぎないが、その結論を僕は快くは思わなかった。少なくとも推論を埋めるには考え得るその他の可能性を排除していかなければならない。この感覚…いや思考のざわめきが事実確認によって否定されてくれることを僕は願った。事実確認…幸村さんと会うしかないのか。僕の心の中の88%の拒絶を凌駕する動機が12%の義務感の中に生まれるかどうか…全てはそこだった。