「ようやくあのクソ野郎がいなくなったのに…君が来て俺は…」

 幸村さんの臼歯が顎の奥でギリと音を立てた。

「君を信用してた俺がバカだったのか!? 被害者の遺体とふたりきりで部屋にこもって、そのときの怪しい行為をなんの説明もしないで逃げたと思ったら、手順も踏まずに浮足立った解剖しやがって! その説明をこっちから聞きに行ってやったのに、人が聞いたら頭おかしいんじゃないかっていう言い訳しか出てこねぇ! しかも逆ギレしやがって、自分には超能力あるんですってか? 僕の替わりを呼んで来いってか? 笑わせんじゃねぇ!」

 彼は僕の胸ぐらを両手で掴んだ。

「どんな事件でも起こったらそこからいろんな命が掛かってんだよ。お前の前任はそれを見ないようにしてナメた真似し続けた。堺さんはそのクズを庇った。いくら良い人だろうが俺には同罪だ。期待してたお前も結局その後釜かよ! まともなヤツは1人もいねぇのかよ!!」

 幸村さんは僕を激しい憎悪の目で睨みつけると、いきなり突き放すように僕の胸ぐらから手を離した。

「早く始めろ。時間がないんだよ」

 彼の言葉が冷たく響く中で僕は悟った。これは僕だけの問題ではないのだと。この問題は、うちの法医学教室全体の失墜した信頼の問題だったのだ。いつの間にか僕は幸村さんの失くした希望を担っていたと言えた。それが失われたと思った時、彼は激しく憤った…信頼したはずの僕と、信じてしまった自分自身に。

 ここで僕が逃げたら。これは僕が逃げただけの結末ではなくなっていた。それは法医学教室が逃げたと同義であることがわかった。僕は膝の上で右手を握りしめていた。

 逃げることはもう出来ない。

 とうとう来た、この時が。寺岡さん…これをいつも貴方は危惧して発作から逃げる僕を厳しく叱咤してくれた。それは教育者であると同時に、法医学ってものが社会的に負う責任を、同じ大学という機関の中で生きるものとして知っていたからだろう。僕はこの桎梏を負いながらここに在らねばならない。それは僕がした選択だった。なぜならそれは僕を本気で殺したかった佳彦が、最後に僕に言ってくれた最後の言葉なのだから。

(君は法医学者にでもなればいい…)

 今なら僕は言える。その言葉しか、僕をここに連れてこれなかったのだと。僕はそこで殺されることを望んでいた。それが叶わなかった僕は、その言葉しか、もう生きていく術を持たなかったんだって。

 言ってみれば、これは貴方が見つけてくれた力だよね、佳彦…そして貴方が僕に嵌めた発作という桎梏…それがなんの意味があるのか僕にはまったくわからない。わかることができない。でもそれを隠すことがもう出来ない。そのことが絶望感以外のものをもたらしたことがない。それでもこれを負いながら生きていくことしか出来ないのなら。

「幸村…さん…」

 僕はコートの上の写真の束を見つめた。

「…なんだ…?」
「始めます。でも…今から僕に起きる発作のこと…見なかったことにしてくれませんか…」
「発作…?」
「ええ。僕が背負ってるトラウマです…僕は…自殺の画像見ると、正気じゃいられなくなる…お願いです…それだけはわかって下さい…」

 幸村さんは一瞬黙った。そしてゆっくり口を開いた。

「君が狂おうがどうなろうが…結果が全てだ。キレイに自殺とそれ以外を分けられるかどうかしか、俺には興味はない。君が本当に使えるヤツかどうか、それ以外のことにも興味はない」
「そうですか…良かったです……では始めます」

 僕は目を閉じた。手錠の下で左手首の古傷が不意に疼いた。僕は目を開いた。1枚目を見た僕は、自殺ではないとわかった。

 撲殺。

 僕は動かすことを許されている右手で、それを右上に分けた。いつの間にか見ているはずの幸村さんが意識から消えていた。