とりあえず前の職場にでも訊いて裏取って、聴きこみでもして、僕と23番さん家との有り得ない関係でも探って、満足するまでやって下さい。そして早くどっかに行って下さい。

 僕はカバン置き場からカバンをつかみ、肩にかけようとした。

 カタン…

 硬いものが落ちる音がした。廊下のフローリングを何かが転がっている。僕はそれを拾った。ああ…こんなところにあったのか。僕はそれをコートのポケットに入れた。失くしたと思っていたミントのスティックだった。2日前に白衣をクリーニングに出したことをその時思い出した。ちょっと遅かったよね、君。まぁ、もういいけどさ。

 ドアを出る前に携帯が鳴った。

「はい…岡本ですが」
「すみません、堺の家内ですが、熱は下がってきましたが、まだぐったりしてまして」

 堺教授の奥さんからだった。

「病院行かれましたか?」
「ええ。やっぱりインフルエンザですって。香港A型。流行ってるんですよね、今年は香港」
「じゃあ、完治するまで自宅待機ですね。点滴でしたか?」
「はい。あれ1回で済みますでしょ? 今日も岡本君によろしくって、うちのが」
「はい。わかりました」

 その日も堺教授はウイルスと戦っていた。点滴のペラミビルの方が解熱時間が短縮され、経口の服用よりも胃腸障害がなく身体に負担がかかりにくい。投薬も1回だけというの簡便さも好ましい。お大事に。治るまで絶対に職場に来ないでください。伝染るから。そう思ってから、感染症者って僕に似てる…と気づいた。近づくと死にますよ。これがウイルスみたいに証明できれば、僕も隔離されるのに。病原体と感染症、と言う物理的な事実を医学に導入したコッホは偉大だな、と、朝っぱらから僕は改めて思った。それまで感染症はオカルトの一種だったわけだから。

 そんなことを考えながら、ドアに施錠して僕は職場へ向かった。