僕が戻るべきところは隆じゃない。今の両親でもない。佳彦でも寺岡さんでもない。

 それは“死”だ。

 僕がずっと安住してたそこに、今こそ本当に帰っていくべきだと思った。熱も性欲もすべて投げ捨てて、僕はあの静かな平安の中にもう一度棲み直す。音のない、熱のない、煩わす雑音や生きている人も、好きとか嫌いとか誰かに言わなきゃならない理由もない、ただ受け入れて静かにそこに居るだけのあの世界。そこに居ると僕が僕であることなんかどうでもいい。時間すら止まっているようなあの無風のひっそりとした透明な世界。

 あのとき以来、それは遠くなったり近くなったり、僕に完全に戻ってくることの無いまま、予感や気配だけが指の先、睫毛の先に触れるだけだった。失くなったわけじゃない。でも掴もうとするとすり抜ける。いつの間にか端に触れている。見つけると遠のく。その繰り返し。生まれてこの方、僕はどうやってあそこに居続けられたのだろうか。その方法がわからない。出たら最後、戻れないなんて、そんなことないよね…そう思って、僕は少し寒くなった。

 もし、この迷走が性欲とか射精とかが原因なら、あの下腹部に打ち込まれた熱を取り除けるものなら、僕は性器なんて切り取っても構わないとすら思った。切り取って性欲が無くなるのなら…あの瞬間を僕は一生忘れないだろう。佳彦の車の中で感じたあの感覚を。離れたことのなかった死の世界が、一瞬で遠のいたあの瞬間を。だが、それも自分をわざわざ壊す行為だ。自殺に似ているその行為を僕は果たして出来るだろうか。

 ひとつだけ可能性を感じるのは、僕がその世界に安住するきっかけになった何かが、本当の父と母のことを知ることでわかるかも知れないということだった。あくまでも可能性だけれど。そこにポータルがあってもおかしくはない。どのようにそれが開いてるのかはまったくわからなかったが。そしてこのことは、小さい裕が望んでいるたったひとつのことだ。僕もそれを叶えることが、今の自分を保っているほんの少しの支えのような気もする。そこになにもなかったら、それから考えようと思った。

 保つというからには動揺しているんだろうが、はっきり言って自分がどれほどこの事実で衝撃を受けているのかよくわからなかった。深くえぐられている気もするし、それほどでもない気もした。手首を切った時と比べて、僕は狂乱してはいないように思えた。ぽかんとしたこの空白が僕の中で時折寒気となる。気力が低下している。それ以外に何かあるのかと聞かれたら、どうでしょうか、と答えそうだった。

 だが、やはりこの感覚はどこかで慣れていた。それが今の僕の最大の強みだと思った。