「…君は味だけじゃなくて匂いにも興味ないのか。食の楽しみが人生にないということが私には実に驚異的なんだがね」
「空腹感はありますから問題ないのでは?」
と、蕎麦屋から帰る道すがら、寺岡さんと僕が話し、それを不思議そうに隆が眺めながら寺岡さんのマンションへ向かっていった。寺岡さんは匂いの話を分析し始めて止まらなくなっていた。
それは僕が午前中にした“警察犬のように嗅覚じゃない匂いをたどる”という話から始まっていたが、それを気にすることが僕にはよくわからなかった。
部屋に帰ってジャケットを脱ぎながらも、寺岡さんの頭の中はフル回転らしく、ブツブツ独り言を言っていた。
「でも、想像の中の匂いとか言うんだよなぁ…なんで日常の中で匂いを感じようともしないのに“想像の中の匂い”とか言うんだろう。あれ? もしかして嗅覚野をイマジネーション領域に乗っ取られちゃったの? 嗅覚って大脳辺縁系じゃない。それなのにそこを新皮質が乗っ取れるのか? でも、嗅覚野は海馬とつながってるから、あながち間違いでもないのか…想像と記憶、イメージや色を統合して強調するのに嗅覚野を使っているとでも言うのか? ということは…」
と、寺岡さんはいきなり黙った。そしてハッとしたように僕を向き、午前中の“我れ発見せり”みたいなときと同じように、立ったままいきなり僕を指さした。
「裕君! 君、なんの匂いが一番気になる?!」
僕は困った。特に思い当たらないからだった。
「気になる匂いって…ないんですが」
「嫌いな匂いは?」
「さあ…」
「じゃあ、匂いの記憶は?」
「記憶?」
「匂いで記憶に残っている思い出ってない?」
「思い出…」
「なんでもいい。鼻で嗅いだ匂いの思い出だよ。なんでもいいから」
僕はそう言われて、ふとあることを思い出した。考えてみれば奇跡的な記憶だった。何しろ僕がそんなことを覚えていたからだった。



