第23話(side story 19)


 駐車場まで無事に下山すると、この春購入したばかりのインプレッサの後部座席に座らせる。ぎこちなく座席に座る弥の様子を窺っていると勇利の脳裏にふと不安がよぎる。名前が無いということは住所はもとより年齢から生年月日まで無い可能性が高く、それでいてこの民族衣装では病院どころかコンビニも行けない。優先順位とそれ以降の対応を真剣に考え込む勇利の横顔を見て弥は口を開く。
「何か問題でもあるのか?」
「いや、問題というか。住所とか生年月日は当然ないですよね?」
「無いな」
「知り合いとかも居ませんよね?」
「居ない。空条勇利が初めて会った人間だ」
 初めて会った人間で名前が無いと言いながらも、高い言語レベルや意思疎通の能力に勇利は合点がいかない。突拍子のない考えだが、人間に生まれ変わったばかりの何か、という推理が湧いてくる。
 小説や漫画によくある、山の神や精霊が人間に転生したみたいな話だと分からなくもないが、記憶喪失でもなく病を患っている人間でもないということならば、この可能性が高い。だとすると、安易に病院というのも難しくなる。
 怪我人を前にして治療しない医者なぞまずいないとは考えるも、どこの誰かという追及から不信感を持たれ警察沙汰になるもの厄介だ。様々なパターンを想像するが、まずは服装をどうにかした後、次に病院という流れに行き着く。
 普通に考えれば不審人物として病院なり警察なりに届けるのが筋だが、今の弥を見ているとそうすることが正しいとは思えない。もし、施設に引き渡すようなことになった場合、弥と二度と会えないようなそんな予感も抱いていた。
 亡くなった弥とは違うと分かり切っていながらも、背中から伝わった安心感と親近感は拭えない。戸惑いながらも運転席に乗り込むと勇利はエンジンをかける。弥は後部座席からじっと勇利を見つめており、その視線の熱さが戸惑いに拍車をかけていた。

 国道に面したリサイクルショップで首尾よくカジュアルな洋服と靴を手に入れると、車の後部座席で着替えるように促す。予想はしていたものの民族衣装の下には下着らしいものを着用しておらず、着替えの最中は背後を見ないように気を遣う。服を着用する方法は心得ていたようで、目の前にいる弥がどこまでの知識と常識を備えているのか計り兼ねていた。
 病院までの道のりにテストも兼ねて様々な質問をぶつけてみるも、返ってくる単語や語彙力から聡明さを覚える反面、とても簡単な一般的知識に答えられないこともあった。
 答えを出せないまま目についた総合病院に飛び込むと、受付の女性に急患であることを告げ待合室まで付き添う。診察室で対面した女医に、ここに至る経緯を説明すると直ぐに縫合手術にかかると言われ、その場で処置が施されることになる。弥は終始落ち着いた様子で受け答えをし、処置中も大人しく勇利はホッと胸を撫で下ろす。急に暴れたりおかしな言動をされては後々の対応に困ってしまう。カルテに書かれてある名前は君島弥であり、調べれば直ぐに偽名ということはバレてしまうのだ。
 最初から十割負担を覚悟していたものの怪しまれることを避け、保険証は後日持って来ると嘘の申告をし一カ月分の食費に相当する福沢諭吉先生を支払う。素人の見立てでも傷の深さは理解しており、案の定お高い治療費となった。ホスト時代に稼いだ多くの蓄えは学費と生活費に消えていたため、今回の出費は決して小さくない。しかし、傷ついていた弥に対しての行為だと思うと、損得勘定より先に安堵感の方が胸に大きく広がる。もし自分が発見していなければ、あのまま命を落としていた可能性が高い。そう考えると、今日のこの出会いに大きな運命を感じざるを得ないでいた。

 病院を後にし何の考えもなく自然と自宅マンションまで走らせ、駐車場に車を停めた瞬間勇利はハッと我に返る。深く考えていなかったことだが一緒に住むことを勝手に想定しており、当たり前のようにお持ち帰りしていた。いくら弥に似ており身の上を心配いるからと言い訳してみても、相手の意見も聞かず先走り過ぎている。譲が今の状況を知ればどんな顔をされるか分からない。ハンドルを握ったまま自己嫌悪で項垂れる勇利を見て弥が話し掛けてくる。
「どうかしたのか?」
「え、いや、軽く自己嫌悪中」
「何に対して?」
「全てに対して」
「全てか。空条勇利もいろいろ悩みを抱えているんだな。私に出来ることがあれば協力するから何なりと言ってくれ」
「ありがとう。こうしてても始まらないし、取りあえず家に入ろうか」
「異存はない」
 足の怪我を庇いながら歩く弥を支えつつ自宅の玄関をくぐる。亡くなった弥とそっくりな女性が自分の部屋に居るという現状に、勇利は複雑な感情を隠せない。弥の死後、誰とも交際せずこの自宅マンションにも女性を招き入れたことのなかった過去があっさり覆り、改めてこの女性の持つ何かに惹かれているのだと思う。
 黒のレザーソファに促すと冷蔵庫からペットボトルのコーラを取り出す。勇利の中ではこの弥が何かの化身であるという確信があり、丁重に扱うべき存在だと認識している。グラスに注いだコーラをガラステーブルに置くと弥は勇利をじっと見つめ問いかける。
「これは?」
「コーラですよ。ホントはポカリとかがいんでしょうけど今はこれしかなくて。医者も言っていたように今日は水分を摂った方がいいですからね。後で買って来ますんで今は取りあえずこれで我慢してください」
「なるほど、ありがたく飲ませて貰う」
 不思議そうな顔つきでグラスを傾ける姿に笑みが零れるものの、その横顔が過去の弥と重なり温かい気持ちにもなる。高校時代に資料室で並んでジュースを飲んだことを思い出し、その後一緒に行った洋食屋で酔っ払って絡んできたことも思い出す。
 亡くなって以降、しっかり向き合うことなくただ自分を責めて生きてきた勇利だったが、こうして元気な弥を見ると冷静に過去を振り返ることができた。出会って共に過ごしてきた期間は一年にも満たない。そんな短い出会いでありながら勇利の人生を大きく変え、人を本気で愛する意味もそれを失う痛みも知った。
 あれから五年の月日が流れても当時の記憶は色褪せることはなく、今のこの出会いを以て再び運命の歯車が動きだしたように感じる。今の弥に過去を重ね合わせるかのごとく見つめていると、弥の表情が突如驚いたものへと変化する。
「空条勇利? 大丈夫か?」
「えっ?」
 唐突に心配され勇利も戸惑い聞き返す。
「大丈夫って、何が?」
「いや、さっきから涙を流してるから、どこか痛いのかと思ったんだが」
 指摘され初めて気づく頬から伝う涙に勇利も驚く。慌てて拭ってみせるがそれは止まらず焦る。
「大丈夫、これはその、ただの生理現象と言うか、目にゴミが入っただけと言うか……」
 顔を背け言い繕うが涙の理由に気がつき押し黙る。隣にいる女性はどんなに似ていても知っている弥ではなく、勇利との過去や想いを持ち合わせてはいない。弥と似ている存在を身近に感じることで、彼女の死を切に実感した勇利の目からは涙が止まらない。涙に暮れるその様子にどう対応していいのか分からず、弥はグラスを両手で持ったまま困惑した表情で見つめていた。