第19話(side story 16)


 麻帆は幼少時代より引っ込み思案で友達も少なく、小説を読むことで青春時代を過ごしてきている。小説の世界に移入し没頭することで、主人公と同じような体験をし、遠い国にも行けるような気がしていた。
 勉強をするのも優等生という評価により自己を防衛する意味もあり、教師を味方につけることで上手く立ち回る術を身につけていた。落ちこぼれることもなく、平穏な学生生活を送っていた麻帆だが夏休みを境に自分の身に大きな変化が起きたと実感する。
 目の前に座るカッコイイ男子生徒と仲良くなり、互いに勉強するという名目で日々言葉を交わしているが、恋心を抱くようになるまで、さしたる時間はかからなかった。
「う~ん、やっぱ古文と漢文は苦手だ。現代人なのに漢文とかを勉強することに意義を見出せないよ」
 問題集に対して勇利はありきたりな恨み節を放つ。
「それを言ったら全ての教科の存在理由が終わるんですけどね。受験とはそういう意味のないものを、どれだけ我慢して勉強してきたかを問うてるのだと思います。漢文くらいで弱音を吐く教師に空条君は勉強を教わりたいと思いますか?」
「言い返せないよ」
「はい、じゃあ続きをどうぞ」
「厳しい先生だな~」
 溜め息を吐きながら問題集に向かう勇利を麻帆は微笑ましく見つめる。学年トップクラスの学力を持つ麻帆に勉強を教わるようになって、勇利の学力はみるみる上昇していった。教科を問わず勇利の質問に対して即座に回答してくれる麻帆の存在は大変有り難く、半年間のブランクなどあっと言う間に取り返す。お蔭で補習も完了し受験に専念できる環境が整う。めきめきと実力をつける勇利を麻帆は黙ったままじっと見つめていた。

 夕方、図書室を後にするといつものように駅まで一緒に下校する。最初は緊張した面持ちで隣を歩いていた麻帆だが、夏休み中毎日朝晩となると流石に慣れてくる。勇利が自身のことを異性として見てないことにも気づいており、恋心はあるものの最初から諦めている。
 今の関係が麻帆にとっても勇利にとってもベストであり、男女関係を匂わすことにより今の良い状況が崩れるのが何よりも怖い。複雑な心境を抱えながら歩いていると勇利の口から思ってもみなかった言葉が飛び出す。
「良かったら、これから夕食でも食べない?」
「えっ?」
「いや、ずっと俺の勉強に付き合わせてるから、たまには何かお礼をしないと悪いなと思って」
「……、分かりました。お言葉に甘えてお願いします」
 丁寧に頭を下げる麻帆を見て勇利は肩をすくめる。話すようになって三週間近くなるが、麻帆は勇利から一定の距離を保っており、当然勇利もそれに気がついている。嫌われている感じもなく気にもしていなかったが、未だに敬語を使われると勇利も背中がむずがゆい。

 互いの利益が微妙に合致し、着かず離れずの関係が続いた八月後半。いつも待ち合わせていた改札前に時間になっても麻帆が現れない。メールや電話をしてみるも反応がなく、仕方なく一人で学校へと向かう。その日以降、パタリと連絡は途絶え、突然の音信不通に首を傾げるが住んでいる場所も分からずただ日々を送っていた。
 そしてとうとう始業式の日を迎え、勇利は駅の改札口で麻帆を待つ。流石に学校が始まれば登校するだろうと踏んでのことだ。不登校の可能性も視野に入れていたが、程なくすると見慣れた姿を見つける。麻帆も勇利に気づいたようで目の前まで歩み寄ってくる。
「おはよう、三浦さん。連絡が取れないから心配してたよ」
「おはようございます」
「何かあった? もしかして病気とか?」
「いえ、至って健康です」
 健康という言葉を聞き、勇利は状況を瞬時に悟る。病気でもないのに連絡を取らなかったということは故意であり、それはつまり、何らかの理由で勇利とはもう会いたくない又は話したくもないという心情に至ったということになる。一瞬理由を聞こうと考えるが、聞いたところで何も生まれないと考え頭を切り替える。
「そうか、健康なら良かった。じゃあ、俺は行くよ。無事を確認できればそれでいい」
 黙りこくる麻帆を確認するときびすを返し勇利は改札を後にした。

 始業式と簡単なホームルームの後、習性のごとく図書室への階段を上っていると踊場に立つ麻帆と目が合う。勇利を待っていたことはその真剣な表情から察することができ、人目の少ない渡り廊下へと自ら誘う。帰宅していく生徒を眼下に見下ろしながら勇利は問う。
「何か話があるんだろ? 今更俺に気を遣う必要なんてないから何でも言ってよ」
 優しい物言いに麻帆は少し躊躇いがちに話を切り出す。
「あの、じゃあ一つ聞いてもいいですか?」
「答えられることなら何でも答える」
「去年の君島先生の事件、空条君が原因って本当?」