茜色に染まった放課後の教室はとてもきれいだった。入口で立ち止まって、柄にもなくその光景を眺めた。誰かがいる訳ではない。だから尚更綺麗だと思った。誰もいない教室なんて自分は中々拝む事がない。朝遅く来て、夕方足早に帰る。今日の夕日は特に赤みを帯びていて、赤いようなオレンジのような色に染まって、机や棚から影が伸びていた。見なれた教室なのにとても綺麗。こんなところだったっけ、なんて、忘れ物を取りに来ただけのはずなのに思わぬ光景に出くわしてラッキー、と心の中で万歳をした。

「携帯忘れたら生きていけないからねえ」

その光景から一旦目を逸らし、自分の席へと向かった。自分の机の中に手を伸ばして目的のそれを探す…けど、あれ。

「ない…」

さあ、っと顔が青ざめる。ちょっとまって、何でここにないの。授業中いじってて、いつもいじりやすいから机の中に置いてるのに。ここにないってことは…他のどこかに、落とした!?そんな…携帯のある場所って言ったら、鞄の中かポケットの中、それか机の中しかないと思ってたのに。もう一度ポケットの中と鞄の中を探る。…けど。ない。ない、何処にもない。じゃあ何処にあるの。もしかして、無くした…?あるまじき現状に軽く鳥肌が立った。携帯ないと生きていけないんだけど…しかも、個人情報めちゃくちゃ入ってるし。携帯で詐欺でもされたら、と被害妄想が膨らんで膨らんで仕方がなかった。どうしよう、本当にどうしよう。歩いてる時どこかに落としたのかな。それか校内に落ちてて…優しい誰かが見つけて、生徒部に届けられてたりはしないのかな。そうだ、ものは試しだ。あるかもしれない、行ってみよう。そこにあることを切に願いながら教室の外へと向かった。お願い神様、ありますように…!半分涙目になりながら足を進めた。

「杉山?」
「えっ…」

ドアに向かっていたけど、まさしくそこから現れた人に名前を呼ばれて足を止めた。行く手に立っていたのは、自分がよく知る人物だった。

「あれ…宮地君。どうしたの」
「教科書取りに来ただけ」
「部活終わったんだ?」
「おー」

クラスメイトの宮地航平君。霞ヶ丘男子バスケ部のレギュラーで、このクラスの学級委員長である。かなり頭がよくてキレ者で、十分すぎるほどの容姿端麗さ。そして加えて口の悪さとその内容の物騒さ。綺麗で良すぎる見た目とは違って彼が口にする言葉はいつも辛辣であり毒や棘つきの物ばかり。でも、それが良いらしい。クラスや学年を問わず、この目の前にいる宮地航平君はかなりモテる。かくいう私もそんな宮地君に好感を持ってるうちの一人であるわけだけど、まあ、そこは置いておいて。つまり宮地君は本当にかっこよくてすごい人だ。他のクラスの友達から、同じクラスであることを良く羨ましがられる。まあそれについては私も自慢したいくらいだけど、なんせ彼とはほとんど話さないから自慢するにもしきれない。いや、話すには話すんだけど、とりわけ仲の良いわけでもないというか。だから、正直言って今みたいな状況はかなり気まずいものがあった。会話が途切れて何も言う事がない。あと二人とかすごく緊張する。生徒部へ行かなければならないのに、と心だけが焦る。が、ふと思い立って、すたすたと隣を通り過ぎていった宮地君を目線で追い、呼びとめた。

「あの、宮地君」
「ん?」
「私の携帯、知らない?」

ダメ元で、自分の席へと向かっていたであろう宮地君にそう言葉を投げかけた。知ってる訳がないと分かっているけど、ものは試しである。まあ私の携帯がどんな見た目だとか宮地君が知っているはずもないけど、落し物があったとかもしかしたら聞いているかもしれない。というか、知ってますようにという神頼みにも近かった。

「ないと困る?」
「え…うん、それは」

困るに決まってる。携帯がないと生きていけないというのは現代の学生全ての人に共通することではないだろうか。見たかどうかを聞きたかったのに、何でそんなこと聞くんだろう。っていうか、質問を質問で返されるとかどういうこと?と疑問に思いつつ、言葉をつづけた宮地君の声に耳を傾けた。

「杉山っていつも早く帰るよな」
「…うん?まあ」
「来るのもおせーし」
「えっと…そうですけど」

何で話変えたの?携帯ないことって私にとって相当重要な話なんですけど、と言いたいけど言えない。そこまで打ち解けた仲じゃない。疑問と、少しの不信感を抱きながら宮地君の質問に答えた。自分の席に行って教科書を手に持ち、宮地君が再び私の方を向いた。ゆっくりと歩いてくる間、何も言わない。口を開かない。えっと、これは知らないってことなのかな?それなら私は生徒部へ行って携帯の在りかを探そう。と、宮地君に別れを告げてくるりと踵を返した時だった。黙っていた宮地君が再び言った言葉に、思わず勢いよく振り向いた。

「これだろ?」

ふり向いた先、宮地君の手の中にあるのはまさしくそれだった。そうそうそれそれ!よかった、あった。無くした訳じゃなかったんだ…本当に良かった。目の届くところに携帯がある事に一気に安堵して、思わず顔が緩んだ。足を進め宮地君に近寄って携帯を受け取ろうとした時、ふと疑問が脳内をよぎった。

あれ…宮地君、なんで私の携帯持ってるの?

私の机の中はどこを探してもなかった。落としたかと思った。けど、宮地君が持ってたから無くした訳ではなかった。…じゃあ、何で?たまたま教室で遭遇して、携帯知らないって聞いただけ。思えば、携帯知らない?って聞いたあと、宮地君は一度も知らないとは言わなかった。見たとも言わなかった。というかむしろ話を逸らされて、携帯の有無については結局答えを得れないまま私はこの教室を去ろうとした。もしかしたら何かのタイミングで間違って宮地君の机の中に私の携帯を入れたのかな、と想像を膨らませてみるけど、宮地君の席には近寄りもしないからその可能性は無し。宮地君、知らないって言わなかったし、教科書取った後も別に顔色変わってなかったし。見つけたら普通少しは驚くと思うから尚更ない話だ。…あれ、顔色、変わらなかったよね?最初聞いた時と、今。じゃあ何で、今も表情が変わらないまま、私の携帯を持ってるの?宮地君の目の前まで行った足をピタリと止める。なかった携帯を宮地君が持っていた。これだろ、って、当たり前みたいに。何で私の携帯って分かったんだろう。違うかもしれないのに、確信したように。
ちょっと待って、宮地君…もしかして

「返して欲しい?」

ニヤリ、笑った宮地君に全てを察した。
分かった。犯人は、宮地君だ。宮地君が私の携帯を持っていたんだ。そう考えれば全てが繋がった。でも何で、と次はそっちの方が気になった。目の前にいる宮地君を見上げる。オレンジにの夕日を背に受けて、ニヤリと笑う。そういう場合ではないのに、綺麗だと思った。宮地君、オレンジが似合うなあ、なんて。伸びた影が私にかかって、目の前、とても近い位置にいる宮地君にどくんと心臓が鼓動を鳴らす。かっこ、いいなあ。

「なんで、宮地君が持ってるの?」

宮地君に見惚れてしまって、少しぼうっとしながら。途切れ途切れにそう聞けば、携帯を私の前に差し出した。返してくれるんだ、と思い視線を携帯に移して素直に手をあげた。だけど、受け取ろうとした手ががしっと掴まれたせいで携帯に触れる事はなく。もちろん腕を拘束したのは宮地君に他ならず。

「え…あの」
「お前、今日帰る時自分の机の上にこれおいてったんだよ」
「…あ」

腕を掴まれることに疑問を感じつつ、私の言葉を遮ってそう言った宮地君に納得する。やっぱ、そうだったんだ。うっかりだなあ私、これから気をつけよう。じゃあ、そっか。宮地君はそれを見つけて生徒部か担任に届けようとしてくれたのかもしれない。なんかいろいろ少し考えたけど、簡単な理由だった。ほっと安心していると、掴んでいた手がグイッと引かれて。え、と声を漏らす暇もなく、宮地君に正面からぶつかってしまった。

「ぶっ!」
「でもな、本当はまだ呼びとめれば杉山に渡せたんだよ」
「い、痛…え?」
「わざと持ってんの、これ。俺が」

離して、と言う前に突然近付いてきた声。宮地君は身長が高いから声は遠いはずなのに、耳元のすぐ横で声がした。息が触るような近い距離で言われたから思わず体がびくりと震えた。ドクン、異常なくらい心臓が大きく脈を打ったのは気のせいではない。

「何でだと思う?」

掠れた声で、囁くように。わざと息を吹きかけながら喋っているのではないかと誤解してしまうくらい、いつもの宮地君らしくなく。ドクン、ドクン、心臓だけが何かを察していて、その鼓動の速度を速めていく。鳥肌が立った理由は、この時の私にはわからなくて。

「分かん、ない」

やっとのことで絞り出した声はとても小さかった。私の声を受け取って、触れていた宮地君と宮地君の声がやっと離れていく。それに一気に力が抜けて、皮切りにしたように顔があつくなっていく。な、何今の。宮地君は一体どういう意味で、何でこんなこと。

「連絡網あるだろ。それで杉山の家電分かるから、家帰ったらかけようと思って」
「…うん?」
「呼びだして、そんとき渡せばいいだろって思ったんだよ」

少し離れたところで、淡々とそう言った宮地君に拍子抜けした。なんだ、普通の理由じゃんか。そう普通に言えばいいのになんであんな意味深ないい方して、し、しかもあんな近くに…てか私宮地君の懐にぶつかっ、近…!いろいろ一気に思い出して、また一層顔に熱が昇る。熱くなってどうしようもなくなった時、また宮地君がさっきみたいに笑って。

「二人で、会えるしな」

再び見せた、一連の出来事を彷彿とさせるその笑みと声に、再び心臓が大きく反応し大きく鼓動を打った。なんて、意味深な言葉。ドキドキと心臓が高鳴って仕方ない私の横を通り過ぎる間際、ポン、と宮地君が私の肩をたたいた。それにすら大げさに反応してしまって、体が跳ねてしまう。

「後でメールする」

そう言って去っていった宮地君は、一体何を考えていたのか。私宮地君のアド知らないんだけど、って瞬時に思って、まさか私の携帯見たのかとはっとする。な、何なの宮地君…意味分かんない。一連の行動も、意味も。考えていることも、何一つ。分かんない、分からないけど。心の奥底ではその理由を察しているような気にすらなって。自惚れるな。宮地君みたいな人が、仲良くすらない私の事…。勘違いするな、自惚れるな。あり得ない事だから、考えるだけ無駄だ。そう自分を言い聞かせても、熱は下がらないままで。宮地君の顔が声が頭から離れてくれない。バクバクと鳴りやまない心臓を落ち着けることもできずに、呆然と立ち尽くすしかなかった。