はじまりは、そんな誘うような言葉から。

あれから自分のデスクに戻って、重役面談用に企画書を作り終えて宣伝部に行くと、


『ついでに手伝って』


と言われて、彼の仕事を少しだけ手伝った。

そんなに急ぎの仕事でもなさそうだった書類整理。

それは多分、私に気を遣わせない為にわざと言ってくれた気がする。


企画書を作り終えても宣伝部の社員証がなければ、自動ロックさを解除してフロアーに入ることもできないから。

仕事を理由にして待っていてくれたんだろうな。



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一緒にいた時間は長くはなかったし。

ときどき意地悪なことやからかわれたりもしたけど、彼は見た目のクールな印象よりもずっと仕事に対しては熱く真面目な印象を持った。

それと書類整理を終えて少しうたた寝をしてしまっていたら、


『腹ん中、見透かしてやった』

トイレに行っていたはずの彼は、コンビニで買って来たおにぎりとプリンを差し入れしてくれた。


強引で意地悪で惑わすことも言うけど、素直に言葉にできないだけで優しい人なのかな?


社員食堂を出てからも、無言で廊下を歩き続ける柏原 柊司の背中を見つめながら、
そんなことを思う。


でもね? 今更ですけど、どこまで行くんだろう。


「あのっ。どこに行くんですか?」


心の呟きをそのまま声にしてみたけど、そのまま流されてしまう。

誰もいない階段を降りたところで、ようやく彼は立ち止まった。



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私より1段下がった彼が振り返ると目線が同じになる。

食堂のざわめきが微かに耳に届くだけの音のない場所。
息遣いを感じるほどの距離に視線を逸らそうとすると、見覚えのあるプラチナのピアスを手渡された。


「一昨日の夜。これ、落としてったろ」

「わぁ。ありがとうございます。どこに落としたのかなって思ってて。少し無理して高いの買っちゃったからショックだったんですよ」


なんだ。みつけててすぐに届けてくれたなんて、やっぱりいい人。

意地悪だなんて思って申し訳なかったなぁ。


胸がほくほくになって、声を弾ませる。
すると私を見下ろす涼しげな瞳が不機嫌そうに細まっていく。

「言い訳長すぎ」

「は?」


イイワケ? 言い訳ってなにが――


意味が分からずに首を斜めに傾ける。
すると柏原 柊司はふっと意味深な吐息を漏らしてから、顔を近くに寄せて囁いた。


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「女って自分のしるし、残したがるからな」


頬に落ちた低い声。
ピアスのない耳朶をそっと指でなぞられて、ひんやりとした感触に背筋がぞわりと粟立つ。


「なっ…」


からかわれてるって分かってるのに、自分の意思に反して跳ね上がる心臓がすごく悔しい。


「そんなっ。私はっ――、そんなことしないです!」


見透かされないようになんとか言い放つと、やけに納得した顔で頷かれた。


「だろーな」

「は?」

「そんな駆け引きも、恋愛テクも、経験もなさそーだし?」

「そっ、それは! ――よく言われますけど…」


図星すぎるそれに思わず声を詰まらせると、「やっぱりな」というように意地悪な笑みを返されてしまう。


一瞬でも優しいだなんて思ったことを後悔してやる!


恨みを込めて睨み返すと、彼は余裕げな表情で笑った。


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「俺は、この後予算の面談。そろそろ桜井の面談結果も出るって聞いた」


もしかして、それを伝えに来てくれた?


ふっと緩んだ表情に、不意打ちの優しい響きに。鼓動が反応してしまう。

でもそれは、まだ癒えきらない傷のせい。きっとそうだと思った。



付き合って2周年記念日の1ヵ月後。

いまから8ヵ前に雅人と別れた。いや、フラレた。

そしてこの前、喫煙ルームで課長と話す彼を見かけた。


『そうか。結婚相手は高校の同級生か。もしかして、あれか? 同窓会で再会してってやつか』

『えぇ、まぁ。気心も知れてる仲ですし』


照れたように笑う横顔に胸がキリキリと痛んだ。


もしかして二股をかけられてた? 

一瞬そんなことを思うと、別れを告げた雅人の言葉が頭を過った。


『嫌いになったわけじゃない。でもこの先を考えたら、なんとなく違う気がしたんだ』

ぼんやりした別れの理由に納得なんて出来るわけない。


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もしかしたらそのときには、すでに彼女と付き合っていたのかもしれない。


『友花。愛してる』

そう思うと優しく囁いてくれた言葉も、たくさんくれたキスも、その想いもすべて偽りだと思った。


時間が解決してくれた。そう思っていたのに…

彼女のことを語る幸せそうな横顔に、まだ消化できていない想いが残されていることを思い知らされただけだった。





「桜井?」


私を呼ぶ低い声にハッと我に返る。
至近距離にある瞳が窺うように私を見つめているのに気付くと、


「ちょっと、用事を思い出したんで」


抑えつけていた感情が視界を滲ませる前に早口でそう告げる。
何か言いたげに顔を歪めた彼に小さく頭を下げてから、その場を走り去った。


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午後3時。

課長からの頼まれごとを終えてデスクに戻る。
すっかり冷えきったコーヒーを口にしてから新着メールをチェックしていると、人事部配信の社内メールの他に、【件名:重要 確認事項】と書かれたものがあった。


差し出し人は美香ちゃんから。メールを開くのと同時にため息が漏れた。


『女子社員注目のレース。柏原賞は超大穴の万馬券。サクライ・ダークホースの独走か!?  なーんて、噂になってますよ?』


ははっ。サクライ・ダークホースって、ちょっと強そうだし。面白いこと考えるよねぇ。

それにしても食堂から連れ出されただけでこの騒ぎって。

噂が巨大化する前にちゃんと説明しとかないと、大変なことになりそうだなぁ。


痛み始めたこめかみを指で押さえつけると、受信ボックスに1通の新着メールが届いた。
差し出し人の名前を見て、頬が一瞬で強張る。

内容を見る前に削除しようと動かしかけたマウス。
その指先がピクリと止まったのは、少し離れたところで私を見つめる雅人と目が合ってしまったから。


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「話したいことがある」


そんな短いメール文の最後には、フロアーの違う会議室の場所が書かれていた。

話したいことなんて何もない。そう返事して、無視すればいいのに――

付き合っていた頃のようにアリバイ用の資料を手に取って立ち上がる私は、本当にバカだと思う。


もしかして、まだこんなことを思ってる?


「やっぱり俺には、友花が必要なんだ」


鼓膜まで響き伝わる優しい声で、強く抱き締めてくれる彼を。
乾ききった心を潤してくれるその言葉を、

私はいまでも待ち続けてる?


バカみたい。もう一度やり直すなんて、あり得ない。

だから二人っきりの会議室で向き合う雅人に、笑顔を浮かべた。




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「結婚するんだってね。おめでとう」


言葉にするとひどく他人事のように思えた。
自然に笑えてる自分にホッと胸を撫で下ろすと、虚をつかれたように言葉を失くした雅人はぎこちない笑顔を浮かべる。


「課長から聞いたのか? うん。まぁ、そういうことなんだ」


視線を横に流しながらも、頬を僅かに緩ませた彼に笑いたくなった。


分かってる。悪気があるわけじゃない。必死に隠そうとしても完全に隠しきれない。

そんな不器用なところが愛おしくて大好きだったから。


あり得ない妄想が現実になることはない。

そう言い聞かせてどんなに傷つく前の予防線を張っても、変わらない現実を突きつけられる度に、
胸の奥底までえぐられる深い傷を負う。


そんな自分に、何度笑いたくなって、もう何度傷ついただろう。



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入社した22歳から2年半付き合った。

結婚なんてまだまだ先のことだと思っていたけど、雅人との未来を考えたこともあった。

いますぐにじゃなくていい。いつかきっと――…
そんな風に夢見て心を弾ませたこともあった。


でも彼から具体的な言葉は一度も聞くことが出来なくて、

『これから先を考えたら、一緒にいられないって思ったんだ』


曖昧だけど決定的な言葉で、終止符を打たれた。


いつかは欲しかった言葉。
彼女はどれくらいの期間で手に入れることが出来たんだろう?


彼女にあって、私にないものは? なにがいけなかった? なにが足りなかったの?

比べても仕方のないこと。考えても解決しないこと。


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でも、それでも考えてしまうのは、雅人への未練?

それとも女として不必要の烙印を押されことが、ただ惨めで、悲しくて、仕方ないから?

ぐるぐると頭の中を反芻する想い。


雅人の話したいことは、きっと結婚のことだろう。
社内で噂になる前に私にきちんと伝えたい。そんなことを思ってるはずだ。


義理堅く誠実なところが好きだった。

だけどいまは、そんな律義さは残酷でしかなくて、蓋をしていた感情が溢れ出しそうになる。
だから気付かれないように息をつき、心でそっとつぶやく。


大丈夫。なんてことない。

あのときの痛みを思えば、私はどんなことだって堪えられる。

これからも、ずっと大丈夫だ。


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それは昔から何度もやってきた『おまじない』
いつだって気持ちを落ち着かせてくれるそれは、今日も効果絶大だった。

落ち着き払った瞳を向けると雅人は意外な言葉を口にし