病院でそのとき初めて急性喘息と言われたらしい
その後母を待ったが何日しても母は現れなかった
来たのは父方の親戚のおばさんだった。
話によれば、母は島では治療が出来ず、
ヘリで本土(東京)に運ばれたらしい。
父のことは聞きたくもなかったし、
親戚も言って来なかった。
親戚のおばさんの話によると、おばさんは
父方の本家の人で僕を母が入院している間
預かるため
迎えに来てくれたそうだ。
そして母に罪悪感を感じ長い孤独な、2年間が
これから待っていた。
そのおばあさんには僕と同い年ぐらいの孫がいた
着る物も食べるものもすべてが区別されていた
この二年間6歳7歳は本当に毎日が辛かった。
母への罪悪感(僕が焼酎にママレモン入れなければ)
母に会いたい寂しさ
でも心配させたくないでも悲しい、寂しい・・・・
こんな事を毎日考えていたことは覚えている。
そんなある日が半年程度続いた時
母方の親戚が本土から逢いに来てくれた
その時母方のおばさんの優しい言葉に
今の生活の不満を泣きながら話した。
そしておばさんは、この子は私が預かりますと
東京ですばらしい生活を与えてくれた
何よりも嬉しかったのは東京に入院している
母に会えることであった。
母にはたまに会えるものの口の中を何十針も縫い
歯は口内に3本しか残ってなかった言う。
膝のお皿は砕け歩けない状況だったと言う。
この二年間6歳7歳は本当に毎日が辛かった。
母への罪悪感(僕が焼酎にママレモン入れなければ)
母に会いたい寂しさ
でも心配させたくない、でも悲しい、寂しい・・・・
こんな事を毎日考えていたことは覚えている。
一度泣きすぎて人前で泣くのが嫌いで
便所で泣いていて知らず間に鍵がかかり
窓から救出されたのをおぼいている。