「ただいま」
「お帰り、陸」
母さんが、財布を手に出かける準備をしていた。
「酒屋さんに行って来るわね」
母さんの言葉に、いつだったか、雨のなか出かけた日を思い出した。
青い傘に二人で入り、濡れないように引き寄せた。
愛しい君と手を繋ぎ、雨に隠れて歩いた。
何もかもが夢だといってるみたいに、俺の周りに変化がない。
いや、変化はあるんだ。
ただ、それに気づいているのは、俺だけ――――。
嘘みたいに、何もなかったみたいに、みんな笑っていて。
そうできないのは、俺だけ……。
あの日、抱きしめた華奢な体。
体調の悪さに虚ろな自分の思考。
ただ、愛していると。
抱きしめてとせがむ君を、愛しい瞳で見つめて手を伸ばし、強く抱きしめた。
握らされた物に気付きもせず、強く、強く――――。
漏れた声に、零れた涙に、離れなければと気付いた時にはもう遅かった。
弱っていた体は、必死にしがみつく君を引き離す力さえ残っていない。
味わった事のない、体を刺していく感覚に頭がどうにかなりそうだった。
「愛してる――――」
耳の奥で、今も君の声が聞こえてくるよ。
少しずつ消え行く温もりと感触。
目がおかしくなったのかとさえ思うように、視界から掠れ消えていく姿。
手にしていたはずの、おぞましいその物さえ、霧のように消えていった。
ゆっくり、ゆっくり霞み、霧となり、実態をなくしていった。
その様子にどうする事もできず、俺はただ見ていることしかできなかった。
あの日から、君は全ての記憶から排除された。
君が消えてしまったように、君がいた部屋も痕跡は跡形もなくなり、君の部屋は物置のような書斎に変わり、母さんも父さんも君が存在していたことを覚えていない。
黒谷も泉君も、君の事を一切忘れてしまっているよ。
あんなに、憎念をぶつけてきたのに。
あんなに、愛情をぶつけてきたのに。
ほんの少しも憶えていないんだ……。
俺はそんな周囲へ、怒りというよりも焦燥感を覚えるだけ。
そうして、力尽きたように感情の起伏を失っていったんだ。



