月野さんの家の前を通ると、いつものように太郎が吠え始めた。
「おい太郎、いい加減に俺たちがあやしくないって気づけよな。」
太郎を見下ろしながら、和人はあきれたように話しかけた。
それでもますます吠え方はひどくなるばかりなので、和人とクロベエは足早にそこを遠ざかった。
和人の母が死んで6日目だった。
クロベエとの散歩が和人の唯一の仕事だった。
その日一人と一匹は、いつもより遠出して景色のよい川原へ向かった。
ちょうど学校の授業が終わり、生徒たちが帰る時間だったが、その場所なら生徒たちと出会うことはまずなかった。

和人はクロベエのリードを外し、川原の草むらに寝転がった。
空が透き通るほど青く、気持ちの良い風が吹いていた。
クロベエは川原を走り回ったり、川へ入ったりして楽しんでいる。
和人は目を閉じて、体中の力を抜いた。

何もする気が起こらない。
勉強はおろか、家にあるサッカーボールを蹴ることもなかった。
テレビをつけていても見るというより、眺めているような感じだ。
(そういえば、あの不思議なデジカメはどうなったのだろう。落とし主は現れたのだろうか。もしそうだとしたらもったいないことをしたな。あれがあればいろんなことができたのに。なんで馬鹿正直に警察に届けたりしたんだろう。)

川原についてから20分ほどした時、遠くから犬の吠える声が聞こえた。
(ん?この声は…)
和人が体を起こしその声の方を向くと、月野と太郎の姿が見えた。
すぐにクロベエが和人の方に走り寄ってきた。
月野は和人に気づくと不思議そうに首をかしげた。
「あの、サッカー部は…」
月野が和人に話しかけてきたが、太郎が例のようにけたたましく吠えるので、
「すみません。」
と謝り10メートルほど引き返して、太郎を道のそばの木につないで戻ってきた。
和人は月野さんが話しかけてくるとは夢にも思っていなかったので、どきどきしながらその様子を見ていた。
「すみません、臆病な犬で誰にでもすぐ吠えて困っているんです。その犬のようにお利口になってくれるといいんですけど。」
和人に近づきながら、月野がほほ笑んだ。
左のほほに浮かんだえくぼがかわいらしい。
和人は自分の顔が真っ赤になっていることに気づき、うつむいた。
「あの、サッカー部は1回戦勝ったって聞いたんですけど、今日は練習なかったんですか。」
「えっ?」
「先輩、サッカー部辞めてないですよね。」
「え、ああ辞めてはいないけど…、この前うちの母親が死んじゃったもんだから…」
月野ははっとして、
「すみません。そんなこととは知らずに…」
と言葉に詰まった。
「いや、いいんだ、気にしないで。でも、サッカー部が1回戦勝っていたなんて知らなかったな。」
和人はなるべく目を合わせないようにしてしゃべっていた。
「松永君がクラス中に自慢していましたよ。このまま優勝しちゃうんじゃないかって。」
「へえ、松永と同じクラスなのか。でも、つ、月野さんたちの女子バスケは…」
「はい、私が今ここにいるってことは、負けちゃったってことです。」
「でも惜しかったんですよ、1点差なんですから。悔しくて悔しくて…。絶対に来年はリベンジしてみせます。」
こぶしを握りしめてそう言うと、月野は太郎の方へ歩きだした。
2・3歩歩いたところで月野が振り返った。
「サッカー部、勝ち進んでくださいね。男子バスケの試合と重ならなかったら応援に行きますから。」
月野はにっこり笑って軽く会釈をし、太郎と歩いて行った。
和人はその後ろ姿をずっと見ていた。

月野の方から話しかけてきた。
それなりに会話もできた。
夢のようだった。
体が緊張してガチガチになっていた。
「クロベエ、帰ろうか。」
そう言って和人は大きく背伸びをした。
なんだか久しぶりに力が湧いてくるような感じがした。