それは伝統の話から、伝説となり、神話となっている。つまりこの世やあの世にも存在しない神なんて、今の俺たち人間にとって、ただの安らぎの道具にしかすぎない。

 サンタクロースなんかがそのいい例だ。トナカイが引くそりに乗って、世界のあらゆる空を駆け回るなんてこと、想像ではどうでもいえるが、人間業ではない。超能力者や百年先の技術がある人間、もしいるなら宇宙人なんかができるのではないだろうか。

 また話がずれてしまった。

 さて、そこで存在する神については別だ。それはいつでも拝める生ける存在であって、偶像崇拝や無生物とは違う。

 しかし毎日は拝まれてはいない。いや、拝まれるわけがない。

 この世に生きる人間は存在する神は知らない。信じていない。あの世の人も知らないだろう。存在しない神を崇拝し、信じ続けている。それはなにがその人自身を駆り立てるものかは、まったくもって俺の理解に悩む。

 子供でたとえるなら、きっと、夢や希望、未来ではない、想像の世界で遊び続けたいのであろう。大人だって、いまやオタクなどがアニメやマンガの二次元の世界の住人に、そしてとりこになっている。そんな自分の、他からは完全に隔絶された空間を作っているのであろう。

 また、その空間は誰にでもあり、作るのは容易である。作ろうと思いさえすれば、その時できるのだから。おっと、いい加減に本題に戻るとしよう。生ける神は知られていないと言ったが、実際は本当にいて、認めたくないというより、広められていないといったほうがいいだろう。もちろん、認めたくないと言うのはあると思うが。

 今、心の中にいる神以外は、誰だって要らないだろう。信じるものは一つだけでいいだろう。複数でも構わないが、いざとなると何を信じて言いのか分からなくなる。だから一つのほうがいい。

 ところで広められていないというのは、その神は小さく生きて、そして質素に消える。そんな神なのだ。誰も知るはずがない。質素でつまらない人生を過ごすのだ。個人の人生は誰よりも楽しいと思うが、人の人生はつまらなく見える。よっぽど波乱万丈でない限り、つまらない。