透明人間

「今日は…会社行くから…」

 突然のことに、私は驚いた。誠也の行方不明の翌日に、普通に会社に行くなんて、到底考えられないだろう。心の底から怒りがこみ上げてきたが、不思議にその怒りは引いていった。昨夜、私は誠也のことより、大体を別のことを考えて過ごしていた。嫌なことから目を背けたい、現実逃避、そんな気持ちを持っている昇の心を、私は見据えることができた。

 そして私は優しく微笑んで言葉を返した。

「うん、分かった」

 昇はうなずき、手は布団の中へ戻っていった。

 もう朝早くから、手がかじむような季節になってきた。まだ冬は迎えていないはずであるが、いよいよ本格的に寒くなりそうだ。手をこすって寒さをしのぐにも、そんなことでしのげるはずがない。

 そんなことを分かっていても、私は手をこすりながら階下に降り、まだ二回しか使っていないヒーターの電源を入れた。

 ヒーターが点く前に、居間に太陽が飛び込んで、一様を照らし始めた。着実にリビングを暖め始めてはいたが、私の心のどこかはすっぽりと穴が開いているようであった。


 昇を送り出し、一人寂しくイスに座って上の空でいた。というより、落ち着いていたといったほうが正しいだろう。これから何をしようか、なんて考えながらも、警察からの連絡を待っていた。小さな望みだとは思っていたが、もしかしたら、という気持ちが私を後押ししてその場所から離れさせない。

 こんな時、誠也のことをずっと思っている。一心不乱に思い続けているはずなのだが、いつかしら乱れが生じ、拉致された子供の親の心情は、といったニュースを思い出す。あの母親は可哀想、と他人事に思ってそれで終わりなのだが、今再び思うと、可哀想どころか、その姿に自分を照らし合わせ、共通点、いわゆるどんな共感を抱いているかを探している自分がいる。辛い、切ない、懐かしい、怨めしい、口惜しい、など、きっとこんなことを思っていたことだろう。

 そんなことを考えて、時間は刻々と刻み、あっという間に一時間を過ぎた。電話は一向に鳴り出す気配はない。なんとなくそんな気がしていたが、希望を失ってはいなかった。

 しばらく電話を見つめていたが、遠くから竿竹屋の声が聞こえてくると、やっと節目がついた。