「ええ…。澪に会う前に、どうしてもあなたたちに伝えたいことがあるの。






……澪はね……記憶を失ったのよ」





その言葉に俺らは絶句した。



……シマとここに来る途中話していたことが今、現実となった。



おばさんは、息を大きく吸い込んで再び静かに語りだした。



「だけどね、普通に話せるし、箸も使えるしっていうように、日常生活をする上では支障をきたすことはないの。


そういうことは忘れてはいなかったの。


忘れたのはね、陸上のこと、あなたたちのこと、家族のこと……そういう澪の中で大きかった大切な記憶はすべてなくなってしまった。


今あの子は……あなたたちのことを何も覚えてはいない。


自分がどんな存在であって、どんなふうにここまで生きていたのか……すべて忘れてしまった」



これが夢であればいい。


悪夢であればいい。


俺は長い夢を見ていて、実は澪は事故になんてあっていなかった……そう上手く解釈しようとしている俺は相当バカなんだと思う。


この場から立ち去りたい気持ちで一杯だった。


いくら自分に言い聞かせたって……怖いものは、怖いんだ。



__『生きているだけで、十分じゃないのか?』



シマのさっきの言葉が蘇る。


俺は、ぎゅっと自分の拳を強く握った。



逃げんじゃねぇ……もう、俺は、逃げねぇんだ。


そう、再び自分に言い聞かせた。


だけど、おばさんの話には、まだ続きがあるようで……



「あの子はもうひとつ失ったのよ」



そう聞いた瞬間まさかと思った。


そして、自分の考えを疑った。


そんなはずない。


そんなことあってたまるもんかと。



だけど、現実は、俺の思った以上に残酷だった。





「……澪は…右下半身が全く動かなくなったの。


陸上生命は絶たれ、歩くことも難しいって先生に言われたわ」




そういった、おばさんの顔は誰よりも辛そうな顔をしていた。


そりゃ、そうだよな。


だって、あいつのこと一番近くで見てきたのは、おばさんなのだから。


だから、誰よりも分かってる。


澪がどれだけ、陸上を愛していたのかを……


彩羅先輩とあかね先輩が、きゅっと唇を噛んで、カタカタと震えていた。


紗名は、頬を涙が滴ったまま、おばさんの顔を真っ直ぐ見つめていた。


彼女らも分かってる。


澪がどれだけ陸上にかけてきたか分かってる。


だからこそ沸き上がる感情は、抑えが効かないんだと思う。






「だからね…あたし、あなたたちにお願いがあるの。




あの子の記憶を取り戻そうとしないでほしい。



あの子にとって陸上は自分の生きる意味であって、自分の一部であった。それは、あなたたちも知っていると思うの。澪が、どれほど陸上を愛していたのか。


だけど、今のあの子は地面を蹴りだすことができなくなってしまった。


あの子が、記憶を取り戻したとき、走っていたあの頃を思い出したとき、深く深く悲しむと思うのよ。


そういう顔はもう見たくないの。


それなら、ここから新たなスタートを切ってもらいたい。

新たな未来を切り開いてほしいの。




このお願いが、正しいとは思っていない。

だけど、あの子のためなの。


ひどい母親だって思ってくれても構わない。




だから…お願いね…








本当にごめんね。」