それはカイが14歳、リュティアが10歳の時の記憶だ。王宮の主宮殿を取り巻く庭では冬大ぶりの桜色の花をつけるルクリアが咲き誇っていたから冬の日なのだろう。

その日花園宮を訪問したカイは、リュティアにしばらく会えなくなることを告げなければならなかった。

士官学校の訓練でコルディレラ山脈に行くことになっていたからだ。

花園宮で小川に足を浸して遊んでいたリュティアは最初、それを大したことと思わなかったのだろう。ただ「気をつけて、早く帰ってきてくださいね」とだけ言っていた。

それなのに誰かがリュティアに余計なことを吹き込んだのだ。

コルディレラでの訓練では死人が出ることもある、と…。

それを聞いたリュティアは血相を変えてカイを追ってきた。はだしのまま、足も乾かぬまま、門番に頼み込み花園宮を去ったカイを追ってきたのだ。

リュティアは満開のルクリアが咲き誇る主宮殿の庭で、やっとカイに追いついた。カイは驚きしばらく言葉が出なかった。

『カイ―危険な訓練だと聞きました。…どうか無事で』

『ああ。気をつけるよ』

それを聞いてもリュティアは心配でたまらないというように柳眉を曇らせていた。

二人の間に沈黙が落ちた。風が通り抜けて桜色の花とリュティアの長い髪を揺らした。

『カイ――』

困惑したように視線をさまよわせたあと、不意にリュティアが身を乗り出してきた。

それは一瞬のことだった。

カイの頬にやわらかい何かが押し当てられた。それがリュティアの唇だと気付いた時にはリュティアはもう体を離していた。

『…おまじないです』

普段兄王子に対してあたりまえのようにしているこの行為しか、リュティアには思い浮かばなかったのだろう。

そうだ。兄のような存在のカイにするのはあたりまえのことだ。それなのにカイはこの時胸があやしくざわめくのを感じたのだ。