二歳のときに高熱を出して、一週間下がらなかった。熱が引いた時には、手足が動かなくなっていた。
驚いた両親は不二雄を連れ大学病院に駆けつけた。病名はポリオと診断された。医者の話では、はじめは風邪に似た症状だが、やがて口から腸管に入ったウィルスが脊髄を犯し、手や足に弛緩性麻痺が現れる。この障害は一生残るという。母は目の前が真っ暗になり、何も考えられなかったと、後にその時の心境を話してくれた。

幼い頃から養護学校、福祉施設等で暮らしていた不二雄だが、三十五歳の時自分の知らない世界を見てみたいと施設を飛び出した。
同じ施設で職員をしていた茂雄が、札幌で介護事業所を立ち上げていた。不二雄は、そこに籍を置き一人暮らしを始めた。
不二雄のところに、初めてヘルパーとしてやってきた麻美は「こんばんは」しか言わず黙ったままだ。コミニュケーションを取ることが苦手であることは茂雄から聞いていたが、自分からは一切話そうとしない。
重たい空気が部屋に立ち込めた。何か話しかけなければと思った不二雄は、「麻美さんはどこに住んでるの、歳はいくつ、兄弟は?」等と訪ねてみた。
すると「東区」「二十八歳」「三人姉妹の長女」とだけぶっきらぼうに答えた。
不二雄は、なんだ、この女と呆れた。あとは会話も無く時間だけが過ぎた。
夕食の準備をしてもらう事にした。「今日は肉じゃがと味噌汁を作ってくれないか」と言うと、麻美が「私、じゃがいも嫌いなので、芋料理は出来ません」
「お前が食べるんじゃないんだ。いいから作れ、調理方法は教える」
「はーい、わかりました」
苛立ちを抑えながら「肉じゃがは、玉ねぎ・人参・じゃがいも・豚肉を一口大に切って、醤油とみりんで味を付けるんだ」言い終わると、不二雄はリビングでテレビを見ていた。
車椅子では狭いキッチンには入っていけない。
一時間が過ぎた頃「出来ました」とテーブルにご飯、肉じゃが、味噌汁が並べられた。
不二雄は食事をなんとか自力で食べる事が出来る。
肉じゃがを一口食べた「なんじゃこの味は」
彼女はすまして「言われたとおりに作りましたけどなにか?」と言い返す。
「俺は『醤油とみりんを入れろ』といっただろう。」
「ちゃんと入れましたよ」
「じゃあ食べてみろ」
「あっ、みりんと酢を入れ違えたみたいです。でもせっかく作ったんだから食べてくださいね」と誤りもしない。
「こんなもの食えるか」
美味しいものを食べることを楽しみにしている不二雄はイラついた。
もう帰ってもいいと言いたかったが、ヘルパーなしでは着替えも寝ることさえ出来ない。顔も見たくない相手と残りの時間を過ごすのは辛いが、そこはぐっとこらえ、まあまあ食べられる味噌汁と納豆で食事を済ませた。
他のヘルパーは、一つのことが終わると「次は何をしますか?」と聞いてくる。
初めての家では特に利用者の指示に従って、家事全般、着替え、洗面、入浴介助を行うべきなのだ。麻美は、キッチンの片付けが終わると平ちゃらな顔で、テレビを見て笑っていた。
「何テレビ見てるんだ、次はパジャマに着替えさせてくれ」
「はい、はい着替えですね」と無理やり脱がそうとした。
「無理に脱がそうとするな、脱がし方があるんだ。セーターは下から上に持ってきて頭を抜いてから右手左手と抜くんだ。着るときは左手、右手頭の順番でやるんだ。わかったか」
「そんなに威張った言い方しなくてもいいじゃないですか?。それに一回言われただけじゃわかりません」と太太しい態度で言った。
「お前こそ、その態度何とかしろ」怒りは爆発した。
「明日、茂雄さんに言ってクビにしてやるからな」
「出来るものなら、どうぞ」
麻美とのやり取りに疲れ果てた不二雄はクタクタになった。
「もう寝るからベッドに移動させてくれないか」
「移動の仕方を教えてくれないとわかりません」
不二雄は「右手を脇の下から回し、左手を膝の下に通して、それで持ちあげる。僕は六十キロあるけど大丈夫かな」なんとか冷静に応えた。
麻美は無言のまま、車椅子からベッドに不二雄を移す。力だけはあるようで簡単に自分と同じくらいの体重の不二雄を抱き上げた。
その後も会話は無く、ベッドに寝かされ「じゃ、帰ります。」の一言だけで帰っていった。
なんて生意気なクソ女なんだろうと、ムカムカして中々眠りにつくことができなかった。麻美の第一印象は最悪なものだった。

次の日は、なじみのヘルパー悠子がやって来た。
「おはようございます。昨日麻美ちゃんどうでした?」
「どうも、こうもない。今まで来たヘルパーの中で最低だ」
「まあまあ、不二雄さん怒らないでくださいよ」
悠子と麻美は、不二雄が来る一年前から茂雄の事業所で働いていた。
不二雄は彼女に、昨晩の麻美との出来事を一部始終話した。
悠子は「そうでしたか、麻美ちゃんがそうだとは思っていませんが、今の雇用法では、精神障害の人を辞めさせるわけにはいかないらしいです。本人に働く意力がある限りは首には出来ないらしいです。」
「なんじゃ、その法律、そんなもんクソくらえだ。俺たちの意見も聞かずに毎年コロコロ法律を変え住み難くしているくせに、もっと現場の声を聞いて欲しいもんだよ。」
「そうですよなね」と悠子は少し考え、
「不二雄さん、麻美ちゃんの教育係やってみてはどうですか?教育しがいがあると思いますよ」と突拍子しもないことを言いだした。
「なんで俺が、あんなクソ女に教えなくちゃならないんだ。こっちが面倒見てもらう方だぞ」
「不二雄さん、そう言う考えはいけませんね。体が不自由でも心は不自由じゃないでしょ。だから、常識をわきまえない人に教えてあげるのが不二雄さんの役目だと思いますよ」と悠子におだてられ、根が単純で面倒見の良い不二雄は、彼女に話したことで、昨日の怒りも薄れ「そうかな」とすっかりその気になった。
悠子は「不二雄さん、もし麻美ちゃんを教育するなら、ヘルパーに対して威張った言い方はやめた方がいいですよ。私も前から気になっていたんですけど、中々言い出せなくて、もし逆の立場だったらカッチンときませんか?」
「そうかなあ、そんなに威張った言い方してるかな」と不二雄は自分がヘルパーにどんな接し方をしているのか気づいていなかった。
「まあ、この話はゆっくり考えて茂雄さんにも相談してみてはどうですか?話をしていたので時間押しちゃいましたね」と悠子は朝食を作り、掃除、洗濯、洗面、着替え等テキパキと手際良くこなした。

不二雄は、翌日事務所に出向き、茂雄に麻美との出来事、悠子に言われたことを話した。
茂雄は苦い顔で「麻美さんには本当に困っているんだ。不二雄さんにだから言うけれど、他の利用者からも苦情の嵐なんだ。あなたが教育してくれると助かるが一筋縄ではいかないと思う」と言った。
不二雄は、みんなに煙たがられている麻美のことが可哀想になってきた。彼女にも事情があるのではないかと思った。それを聞き出すことが出来るかどうかわからなかったが、自分の介護を通して、みんなとコミュニケーションをはかれるようになって欲しいと思い、担当になることを決めた。
数日後、「次のシフトから麻美ちゃんお願いします」と茂雄から不二雄に連絡があった。
麻美は、週に五、六回不二雄の家にヘルパーとして来る事になった。
ヘルパーの稼働体制は、事業所によって異なるが、茂雄の所では午前五時間、夕方から五時間、合計一日十時間使える人が多い。
午前と夕方のヘルパーが違う時もあれば、一日通して同じ人のこともある。
不二雄の家では、玄関の鍵は暗証番号付きの郵便受けの中に入れてある。当番のヘルパーは自分で番号を打ち込み鍵を取り出して室内に入ることになる。

麻美は何事もなかったかのように「おはようございます」と入って来るなり「今日から私が不二雄さんの担当らしいです。なんでなんでしょうね」と吐き捨てるように言った。
不二雄が麻美の教育をするということは、本人には内緒のことだった。
「麻美ちゃん、その言い方は良くないよ。僕もこれから話し方気をつけるから一緒に直していこう」と穏やかに話した。
「どうしたんですか?何か気持ち悪いですね」
「気持ち悪いはないだろう。今日は、二時半に大通で友人に会うから急いでやらないと間に合わなくなるから」と伝えた。
「はい、はい、何からやるか教えて~」とやる気のない態度だった。
「ハイは、一回でいいんだ。それから、朝からやる気のない態度はやめてくれないか?こっちまでやる気をなくすから」。
麻美の教育係を引き受けたことを少し後悔したが、ここはやるしかない。不二雄は思い直した。
「はじめに、トイレに行きたいから連れて行ってくれないか?この間教えた抱き方覚えているかな?」と聞いた。
「全然覚えてません」とあっさり言われた。
不二雄は、いつも前日ヘルパーが帰るときにトイレを済ませて、朝まで我慢する。夕食後は水を飲まないようにしていた。もう膀胱は破裂しそうだったが、ベッドから車椅子の移り方を教えた。
トイレも自分では出来ないので、小の時は車椅子に乗ったままで尿瓶をあてがってもらう。女性ヘルパーの時、最初は恥ずかしい気持ちになるがすぐに慣れてしまう。
大きい方の時は、車椅子の上で体を捩ってもらいながらズボン・パンツを下げ、体を抱えて便座へと移動させてもらう。
「膀胱が破裂しそうだ。急いでトイレに連れて行ってくれないか」
「はーい分かりました。寝る前水飲みすぎたんじゃありませんか?」と余計な一言を言われ、カチンときたが「怒らない、怒らない」と自分に言い聞かせ、次の指示を出した。
朝食の準備をさせた。朝はいつも、パン・コーヒーほか一品だった。
「今日はハムエッグを作ってくれないか?」
「はーい、分かりました。」と少しやる気が出てきたのかと思っていた。不二雄は次の瞬間目を疑った。麻美はハムと卵を別々に焼いて「これくっつきません。これでいいですか?」ととぼけたことを言った。
呆れて吹き出しそうになったが、グッとこらえて。本当にこの子は何も出来ないんだなあと思った。
「確かにこれもハムエッグだけど、ハムの上に卵を落としてフライパンに蓋をして、最後に塩コショウを振るんだよ」と教えた。
他の利用者が何を食べているのか気になった不二雄は「他の家ではどんな食事を作るの」と聞いた。
「個人情報なので教えられません」ここでそれを言うかのという答えが返って来た。
「でもハムエッグは作ったことないです」
「今日は時間がないから、これでいいけどこれからはちゃんと作ってくれよ」とハムと卵が別々に焼かれたハムエッグを食べた。
朝食と後片付けを済ませると十一時になっていた。
「次は、顔を洗うから」と洗面台に向かうと後ろから麻美がついて来た。
「先に行ってくれないと麻美ちゃんが入れなくなるだろ」
「そうですね。早く言ってくださいよ~」と言い返す。
不二雄の家は、玄関を入ると左側にトイレ・洗面台・お風呂場があり、車椅子が先に行くと誰も通れなくなる。右側にはリビング・キッチン・寝室となっている。
リビングの掃除が終わった時には、すでに一時を回っていた。
二時半までに大通りまで行きたい不二雄は「もう出かけるぞ。あとは帰ってきてからにしてくれないか」と言った。
「あとはトイレ掃除だけなんですよ」と不服そうに麻美が応えた
「ここは、俺の家なんだから俺の言うことに従ってもらう」この日、初めて強い口調で言った。
「はいわかりました。出掛ける準備ですね」珍しく素直にテキパキと出かける準備をはじめた。
やれば出来るじゃん、不二雄は麻美に対して少し希望が持てるような気がした。
午前中の稼働終了時は、ヘルパーと出先で別れ、夕方は待ち合わせ場所を決め、そこで落ち合い一緒に家に帰る。出かけない日は直接家に来ることになっている。
稼働終了前には、必ずトイレに行き用を済ませる。その後は水分を取らないようにしている。