夫婦仲がいいという風には見えなかったけれど喧嘩を目にしたこともない。そんな両親の喧嘩を頻繁に目撃するようになり、さらにその規模が日に日に大きくなっていくのは、それから間もなくだった。

二人は今まで溜め込んだものを洗いざらいぶちまけるように罵り合った。汚い言葉で、醜い口調で。あたしは次第に部屋に引き籠るようになる。鍵を閉めて布団を被って。

あまりにも耐え難い夜は家を飛び出した。マンション内のエントランスや非常階段で時間を潰した。小学生のあたしには冷えたコンクリートの階段で過ごす夜は恐ろしい魔物のようだったけれど、それでも家にいるよりは遥かに心が休まった。


ある晩。九時過ぎに帰宅した父親と母親の喧嘩が勃発した。またか、と鍵を掛けてベッドに潜る。二人とも大声で罵倒し合うからベッドにいても喧嘩が続いているのはわかる。今夜も長くなりそうだ、と思った時、玄関のドアが勢いよく閉まった。

翌朝学校に行く時間になっても母親は帰って来なかった。通学班で登校中、ランドセルの肩紐を握りしめながら覚った。もう、彼女に会うことはない。

それから一週間程経った頃だろうか。学校から帰宅すると、彼女の荷物がごっそり消えていた。服から化粧品から歯ブラシの一本まで。まるで初めからなかったかのようにきれいさっぱり姿を消した。リビングのサイドボードの上に飾られた七五三の写真はあった。写真の中のあたしは、赤い着物を着て和傘を差して無垢な笑みを浮かべている。彼女はあたしを捨てたのだ。

「なんなんだよ、おまえは!あのバカ女みたいな顔しやがって!」

初めて殴られたのはその夜だ。平手打ちだった。母親似のあたし。そんなどうしようもない理由で。

殴られながら蹴られながら、どうしてこの人と親子なのだろうと何度も考えた。あたしの半分はこの人から受け継がれていることが有り得ないと思ったし、吐き気がするくらい嫌悪感しかなかった。こんなに違うのに、どうして。母親に似ているから乱暴に扱われているのに、何故この人が父親なのだろう。

もう、あたしに家族はいない。お父さん、と呼ぶのを、例え脳内であっても止めた。母親も同様。繋がってなんかいない。そんなの幻想。あたしは、ひとりだ。