今回は、インターホンで呼び出すと、初音はあっさりオートロックを解除してくれた。二人でエントランスへ進むと、俺たちに紛れて侵入した人影があった。そいつは足早にエレベーターへ向かう。タイトな黒の上下を着て、黒のキャップを目深にかぶっており、周りの目を気にするように俯いている。どうにも怪しい。
那智も同じことを感じたらしく、すかさずそいつの腕を掴んで引き戻し、
「失礼ですけど、ここの住人ですか?」
と問えば、
「そうですけど、何か?」
そいつは震える声で答えた。少し顔を上向けたが、決して那智と目を合わせない。30に届くか届かないかぐらいの歳の華奢な女だった。化粧はしていないが清潔感はあった。
「いえ、住人じゃない人が入りこんじゃったら、僕らにも責任があるんで」
那智は顔面に感じのいい笑顔を貼りつけて言い、「もう一度、ご自身で入り直してもらえます?」と続けた。
「え? あ……ええ、わかりました」
言って女はそそくさと出ていった。総合インターホンの前に立ち、ちらちらこちらを気にしている。本当にここの住人なら、専用キーか暗証番号かで開けるんだろうが、女はちっとも動こうとしない。
「那智くん」
俺が囁くと、だね、と小声で言って那智は自動ドアを開けて女の元へ近づいていく。
「やっ……やっぱり用事を思い出した」
女は慌てて言い訳っぽく言い、踵を返して走り出そうとした。が、また那智に捕まった。
「免許証か何か、身分を証明するもの見せてもらえます?」
那智は落ち着いた調子で言う。
「どうしてあなたに? あなたになんの権利があってそんな……」
「僕たち警官です」
那智は慣れた手つきで警察手帳を女の面前にかざした。女が息を呑む音が俺にも聞こえた。
「ちょっとお話聞かせてもらえますか? あ、これ職質です。僕たち警官だから」
女はおどおどして目を泳がす。
「取って食おうってわけじゃないから、そう怖がらないで」
那智が優しい声音で言う。那智くん、こんな喋り方もできるのね。
「まずは身分証見せてもらえる?」
女は観念したのか素直に従った。ボディバッグから免許証を取り出し那智に手渡した。
「大高美津子さんね。やっぱりここの住人じゃないですね」
那智は言いながらスマホで写真を撮った。
「今日は誰になんの用でここへ?」
「言いたくないです」
大高は身分は明かしたが、それ以上打ち明ける気はないようだ。
「大高さん、今ここで話してくれないなら、こちらもあなたのことを徹底的に調べなきゃなりません。それはお互いにとって得策と思えないんですけど、どうでしょう?」
俺が横から口を挟むと、
「この刑事さんの言う通りです。それに、大高さん、何かお困りではないですか? 話してもらえれば、僕たちが力になれるかもしれません」
那智が親身になって諭すような口調で言う。違う角度から切り込むことにしたようだ。
「あの、自主したら罪は軽くなりますか?」
「突然何を……自主?」
大高の唐突な発言に思わず聞き返してしまう。
「実は……辻岡先生に謝りたくて。東郷さんが殺されたのも、もしかして私のせいかもって思って。だとしたら辻岡先生も危険なんじゃないかと思ったんです。東郷さんの妹さんに聞けば、辻岡先生が今どこにいるかわかるかもって、それで……」
「謝りたいって何を?」
那智が食い気味に訊いた。
「渋谷さんが亡くなったの、私のせいなんです」
「え?」
俺と那智の声が重なった。
「私が殺したんです」
今度は声も出なかった。全身黒づくめは怪しさ満載だけど、話してみたら至って普通の女性だ。そんな人の口からが『私が殺した』なんて言葉が出ても、にわかには信じられなかった。渋谷ってのは確か、辻岡に殺人容疑がかかっている肝臓癌末期の患者のことか。
「見ていられなくて。延命拒否してるはずなのに、ドパミンで無理矢理生かされて。指先も真っ黒で腐ったバナナみたいで、身体の細胞はもう限界なのに、心臓を強制的に動かされている。あんなの生き地獄ですよ」
「生き地獄かどうかは、本人に聞いてみないとわからないんじゃ?」
那智が困った顔で問う。
「最後の何日かはほとんど意識なかったけど、でも私がケアに入った時、少しだけ意識が戻ったんです。朦朧とはしていましたけど、『苦しい、助けて』と何度も訴えられました。そして最後には『どうか、早く終わらせて』と」
医療現場のことはよくわからないから、俺たちは黙って聞くしかなかった。
「藤ヶ崎病院は、年金とかそういう、患者に入ってくるお金を少しでも長く受け取りたい家族にとって都合のいい病院なんです。病室を覗いてみてください。まるで地獄絵図ですよ」
「あなたは藤ヶ崎病院の従業員ですか?」
と那智。
「消化器病棟の看護師をしていました。もう辞めましたけど」
こういった、人の尊厳に関わる問題は難しいところだけど、日本で安楽死は法的に認められていない。だけど、本人が望まないのに、家族と病院が共謀して、無理矢理に拷問のような苦しい生を強制的に続けさせるのはどうなの?
『あなたの大切な人の笑顔を守りたい』は表向きで、『あなたの大切な収入源を守りたい』が真のキャッチフレーズだったのか。そして、ここに入院してくる患者の家族のほとんどが、この事実を知っていて利用しているのかもしれない。
恐ろしい話だよ。
あの医院長、根っからの悪人だな。ヤクザよりも質が悪い。
「東郷さんだけが私のしたことに気づいていました。でも知らない振りをしてくれていたんです。家族が騒ぎ出した時、私、まずいって思いました。バレるかもって」
「それであなたはどうしたんですか?」
俺が口を挟んだ。
「辻岡先生に突然話しかけられたんです。『俺がなんとかするから、君は何もするな』って。わけがわからなかったけど辻岡先生と東郷さんは親しかったし、信用できると思いました。でも何もするなって言われたけど、あんなところではもう働きたくなくて、ほとほとうんざりしてたので、疑われないように、家族の介護のためとか嘘ついて自主退職したんです」
辻岡は、渋谷順子も東郷悦子も殺していない。ただ、東郷悦子の遺体を移動させ、俺に罪を着せる偽装工作をしただけ。操作を撹乱させ自分の手で復讐を果たすためだけに。死体遺棄容疑で任意同行もありっちゃありだけど。それにしても、辻岡のイメージが思っていたのと全然違う。
「刑事さん、私、逮捕されますよね?」
大高は覚悟を決めたように訊いた。那智がまた困った顔をして俺を見る。
「俺たちが追ってる件とは関係ないようなので……」
俺が答えると、那智も安心したようにほっと息をつき、
「自主するならご自由にどうぞ。俺たちは他言するつもりもないですけど」
と無責任なことを口走る。捜査報告の過程で、この件も報告しなきゃなんない流れになるかもしれないのに。
那智も同じことを感じたらしく、すかさずそいつの腕を掴んで引き戻し、
「失礼ですけど、ここの住人ですか?」
と問えば、
「そうですけど、何か?」
そいつは震える声で答えた。少し顔を上向けたが、決して那智と目を合わせない。30に届くか届かないかぐらいの歳の華奢な女だった。化粧はしていないが清潔感はあった。
「いえ、住人じゃない人が入りこんじゃったら、僕らにも責任があるんで」
那智は顔面に感じのいい笑顔を貼りつけて言い、「もう一度、ご自身で入り直してもらえます?」と続けた。
「え? あ……ええ、わかりました」
言って女はそそくさと出ていった。総合インターホンの前に立ち、ちらちらこちらを気にしている。本当にここの住人なら、専用キーか暗証番号かで開けるんだろうが、女はちっとも動こうとしない。
「那智くん」
俺が囁くと、だね、と小声で言って那智は自動ドアを開けて女の元へ近づいていく。
「やっ……やっぱり用事を思い出した」
女は慌てて言い訳っぽく言い、踵を返して走り出そうとした。が、また那智に捕まった。
「免許証か何か、身分を証明するもの見せてもらえます?」
那智は落ち着いた調子で言う。
「どうしてあなたに? あなたになんの権利があってそんな……」
「僕たち警官です」
那智は慣れた手つきで警察手帳を女の面前にかざした。女が息を呑む音が俺にも聞こえた。
「ちょっとお話聞かせてもらえますか? あ、これ職質です。僕たち警官だから」
女はおどおどして目を泳がす。
「取って食おうってわけじゃないから、そう怖がらないで」
那智が優しい声音で言う。那智くん、こんな喋り方もできるのね。
「まずは身分証見せてもらえる?」
女は観念したのか素直に従った。ボディバッグから免許証を取り出し那智に手渡した。
「大高美津子さんね。やっぱりここの住人じゃないですね」
那智は言いながらスマホで写真を撮った。
「今日は誰になんの用でここへ?」
「言いたくないです」
大高は身分は明かしたが、それ以上打ち明ける気はないようだ。
「大高さん、今ここで話してくれないなら、こちらもあなたのことを徹底的に調べなきゃなりません。それはお互いにとって得策と思えないんですけど、どうでしょう?」
俺が横から口を挟むと、
「この刑事さんの言う通りです。それに、大高さん、何かお困りではないですか? 話してもらえれば、僕たちが力になれるかもしれません」
那智が親身になって諭すような口調で言う。違う角度から切り込むことにしたようだ。
「あの、自主したら罪は軽くなりますか?」
「突然何を……自主?」
大高の唐突な発言に思わず聞き返してしまう。
「実は……辻岡先生に謝りたくて。東郷さんが殺されたのも、もしかして私のせいかもって思って。だとしたら辻岡先生も危険なんじゃないかと思ったんです。東郷さんの妹さんに聞けば、辻岡先生が今どこにいるかわかるかもって、それで……」
「謝りたいって何を?」
那智が食い気味に訊いた。
「渋谷さんが亡くなったの、私のせいなんです」
「え?」
俺と那智の声が重なった。
「私が殺したんです」
今度は声も出なかった。全身黒づくめは怪しさ満載だけど、話してみたら至って普通の女性だ。そんな人の口からが『私が殺した』なんて言葉が出ても、にわかには信じられなかった。渋谷ってのは確か、辻岡に殺人容疑がかかっている肝臓癌末期の患者のことか。
「見ていられなくて。延命拒否してるはずなのに、ドパミンで無理矢理生かされて。指先も真っ黒で腐ったバナナみたいで、身体の細胞はもう限界なのに、心臓を強制的に動かされている。あんなの生き地獄ですよ」
「生き地獄かどうかは、本人に聞いてみないとわからないんじゃ?」
那智が困った顔で問う。
「最後の何日かはほとんど意識なかったけど、でも私がケアに入った時、少しだけ意識が戻ったんです。朦朧とはしていましたけど、『苦しい、助けて』と何度も訴えられました。そして最後には『どうか、早く終わらせて』と」
医療現場のことはよくわからないから、俺たちは黙って聞くしかなかった。
「藤ヶ崎病院は、年金とかそういう、患者に入ってくるお金を少しでも長く受け取りたい家族にとって都合のいい病院なんです。病室を覗いてみてください。まるで地獄絵図ですよ」
「あなたは藤ヶ崎病院の従業員ですか?」
と那智。
「消化器病棟の看護師をしていました。もう辞めましたけど」
こういった、人の尊厳に関わる問題は難しいところだけど、日本で安楽死は法的に認められていない。だけど、本人が望まないのに、家族と病院が共謀して、無理矢理に拷問のような苦しい生を強制的に続けさせるのはどうなの?
『あなたの大切な人の笑顔を守りたい』は表向きで、『あなたの大切な収入源を守りたい』が真のキャッチフレーズだったのか。そして、ここに入院してくる患者の家族のほとんどが、この事実を知っていて利用しているのかもしれない。
恐ろしい話だよ。
あの医院長、根っからの悪人だな。ヤクザよりも質が悪い。
「東郷さんだけが私のしたことに気づいていました。でも知らない振りをしてくれていたんです。家族が騒ぎ出した時、私、まずいって思いました。バレるかもって」
「それであなたはどうしたんですか?」
俺が口を挟んだ。
「辻岡先生に突然話しかけられたんです。『俺がなんとかするから、君は何もするな』って。わけがわからなかったけど辻岡先生と東郷さんは親しかったし、信用できると思いました。でも何もするなって言われたけど、あんなところではもう働きたくなくて、ほとほとうんざりしてたので、疑われないように、家族の介護のためとか嘘ついて自主退職したんです」
辻岡は、渋谷順子も東郷悦子も殺していない。ただ、東郷悦子の遺体を移動させ、俺に罪を着せる偽装工作をしただけ。操作を撹乱させ自分の手で復讐を果たすためだけに。死体遺棄容疑で任意同行もありっちゃありだけど。それにしても、辻岡のイメージが思っていたのと全然違う。
「刑事さん、私、逮捕されますよね?」
大高は覚悟を決めたように訊いた。那智がまた困った顔をして俺を見る。
「俺たちが追ってる件とは関係ないようなので……」
俺が答えると、那智も安心したようにほっと息をつき、
「自主するならご自由にどうぞ。俺たちは他言するつもりもないですけど」
と無責任なことを口走る。捜査報告の過程で、この件も報告しなきゃなんない流れになるかもしれないのに。



