橘さんが、ゆっくり上体を起こす。
押し退けたつもりなのに、口角を上げて余裕の表情。おまけに怯んだり後退ることもしないで、思いがけず近い距離に立っている。
これじゃあ、周りの乗客に誤解を招きかねない。
「退いてって言ってるの、聴こえない?」
「聴こえてる、でも退かないよ」
「何言ってんの? 私、ここで降りるんだけど?」
「だったら一緒に降りよう、俺もここで降りるから」
「はい?」
声が裏返る。
瞬間、車両が大きく傾いた。
足元がふらついて、よろめきそうになる私の腕を橘さんが掴んで引き留める。
「ほら、降りるよ」
彼は笑みを含んだ声で告げると、開いたドアへと進んでく。私の腕を引っ張って。
きっと、追及するつもりだ。
どうして美波にバラしたんだって、問い詰められるに違いない。
今すぐ腕を振りほどいて、もう一度電車に飛び乗りたいと願う私の背後で無情にもドアが閉まる。
ゆっくりと電車が走り出す。
ホームに降り立った乗客が、改札口に向かって階段を下りていく。
私たちを残して。
誰も見知った人なんていない。
誰も助けてはくれない。

