何か言ってやりたいけれど、適当な言葉が浮かばない。下手なことを言って、さらに墓穴を掘ってしまっても困るから尚更に。
橘さんだって、何も言わない。
吊革にぶら下がって、前のめりの姿勢で私の顔を覗き込んだまま。
ずっと涼しげな笑顔を崩さないで。
それがまた、不気味でもあるのだけど。
いつしか私は、『先に口を開いたら負け』なんて思うようになっていた。
橘さんに気を取られているうちに、電車は一駅目の坂白(さかしろ)駅に停まっていた。あっという間にドアが閉まって、電車が走り出す。
私は次の滝野原駅で降りるのに、橘さんはどこで降りるんだろう。
浮かんだ疑問さえ、口に出すことが憚られてしまう。
だけど、いつまでも黙ってはいられない。もうすぐ私は降りなきゃいけないんだから。
車掌さんのアナウンスが車内に響いてくる。電車が緩やかに速度を落としていく。
まもなく、電車は滝野原駅に到着する。
「退いてください、降りるから」
言い切って、立ち上がった。
彼を押し退けるつもりで、勢いよく。
先に口を開いた私の負け、だけど構うものか。

