ドアを開けると広い玄関。


仄かに芳香剤の香りがする。


私の嫌いな匂い。


靴を脱いで下駄箱にしまうと、私は恐る恐るリビングに続くドアを開けた。


「ただいまぁ…」


聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でそういって勉強部屋へこそこそ移動しようとする。




『あれ、今日は早いんだね。いつも遅いくせに(笑)』




部屋のドアに手をかけた瞬間、後ろから声をかけられた。


ぎこちなく体を動かしてドアノブから手を離す。


「あ…ただいま」


重い体を無理やり動かして、振り返る。


「あら、アンタただいまなんて言葉知ってたのかい(笑)」


そこにはおばあちゃんが立っていた。


人を小馬鹿にしたような口調。


何を言う時にも皮肉を含めたような言い方。


一瞬で人を嫌な気分にさせる声。


言葉を交わすだけで鳥肌が立つ。


「今日はクラブ無いし、五時間しか授業ないから」


「あらそうかい」


人を見下しきった目。しわしわの顔。


私はおばあちゃんがとてつもなく苦手だった。


この世で二番目に嫌いな人間だ。


「おじいちゃんは?」


「犬の散歩だよ」


「そか」


私はおばあちゃんにそれだけ聞くと勉強部屋に閉じこもった。


ランドセルをおいて自分の勉強机の影に隠れるようにして蹲る。


おばあちゃんだけならまだ序の口。


全然へいき。


パパが帰ってくるまでは、大丈夫だよ。私。


今の時間は15時30分。


パパが帰ってくるまであと2時間半。


それまでに心を固めなきゃ。



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両手をぎゅっと握って、膝に顔をうずめる。


今日あった嬉しいことと、楽しいことを思い出して明日学校の休み時間にすることを決める。


そして今日は出来るだけパパが帰ってくるのが遅くなりますようにと心で唱える。


それから、余計なことは何も考えない。


部屋の外には出ない。


自分の殻にひたすら篭る。




大丈夫。


今日の夜もまた、我慢するだけでいいんだ。




ほとんど何も置かれていない勉強部屋で、ただただ自分を励ます。


真っ白な壁、真っ白な襖。


真っ白な天井。


汚れた壊れかけの机。真っ黒な椅子。


ワインレッドのランドセル。


そして、私。


今あるのはそれだけ。


パパはいない。大丈夫。


大丈夫だよ。紫喜。


円洞紫喜はまだ、頑張れるよ。


大丈夫大丈夫。


手に跡が残るほどギュッと握る。


目を瞑って心を静める。




パパが帰ってくる時間が少しでも遅れますように。


明日もまた、笑って学校に行けますように。


顔に痣が、出来ませんように。



祈る。


祈って祈って、心を落ち着ける。


パパに会っても普通でいられるように。


分からない理由で殴られても泣かないように。


何を言われても我慢できるように。


一生懸命自分の心を固めていく。




時間が過ぎていくのが早い。




あと三十分でパパが帰ってくるなんて。


時間過ぎるの少し早すぎないかな?


でも、誰も時計をいじってないんだから本当にあと三十分で帰ってくるんだろうな。


部屋の外から夕飯のいい匂いがしてくる。


「あ…夕飯作りの手伝い…行かなくちゃ。」


私は立ち上がって勉強部屋のドアを開けた。