「なんだって……」
 テーブルに紙があった。
 横書きの書類。ただし、印鑑が黒い。コピーだ。そうだ、罫線も緑じゃない。
「これ、この、あの、元はどこにやった?」
 僕は母にコピーを突きつけた。母は顔を上げずに受け取った。

「役所に出したわ。ワタシが」
「どうして!!」
「どうして、って……。ワタシが春雄さんに渡しておいたものだから」
「だからって! だから、なんでこんなもん、渡したりなんかするんだよ!? 必要ないだろ!」
「必要……いらなくなっちゃった」
 クスッと母が笑った。
 暖房の効いた部屋でダッフルコートを羽織っていたのに、僕は寒気がした。

「だってそうでしょ」
 すっくと立ちあがる、母。
 僕に向かい、離婚届のコピーを振って、妙に明るい声で。
「ワタシは春雄さんなしで生活できるし、春雄さんもそうだし、春都ももう大人だし」
 僕は母の手からコピーを奪った。
 びりびりに破った。
 乾いた音がした。
 音がしなくなるくらい細かくちぎった。
 これでもか、これでもかと。
 すべてをなかったことにしたくて。

「ワタシはまだ若いし、旧姓の表札も今朝発注したのにもう届いたし」
 母は空になった手をまだ振っている。
 ひらひらと振っている。
 その仕草は父さんと同じだった。
 父さんが振ってみせた手にも、結婚指輪がなかった。
 気づかないどころか、虫の知らせも、悪い予感もなかった。
「うるさい親戚もいないし、年賀状も出しおえたし、あと」
 ——なんて鈍いんだ、僕は。

「これが肝心。春都が受験だから。願書出してから名字が変わるのなんて、嫌でしょ?」