拳を作り、向かってくるシュウ君がやけにゆっくりと見える。
なのに、私の身体は回避の命令を受け付けない。
反射で目を閉じるのが精一杯で、頬への衝撃を覚悟した。

瞬間。

ーーーポーン!

鐘をついたような低めの、だがなんとも間抜けな音がした。
でも、痛みはない。

そろりと目を開けると、宙に舞った艶やかな黒髪がはらりと波打つ。

「風花寮での揉め事は、許しませんよ」

「大家さん!」

私とシュウ君の間に滑り込み、雪平鍋の底でシュウ君の拳を受けた大家さんは、逆の手にあった万能包丁の側面で彼の額をめっと叩いた。
居合わせた私達の血の気が一気に引いたことは、当然の心理でしょう。

「ましてや流血沙汰なんて………」

北山君の手元を横目で見て。

「そちらは追い剥ぎにでもあったようですし」

顔の血は拭き取られているものの、素肌の上にサイズの合わない上着をかきあわせたた青木君は、大家さんの目にどう映ったのでしょうか。

「福井さんに向かっていくところは、この目で見ましたし……」

雪平鍋を下ろし、シュウ君に向き直る大家さん。

「お夕飯の後で、説明していただきましょうか、ね」

大家さんは、包丁で口元を隠すように、不敵に微笑んだのだと思う。
正面にいたシュウ君が、声にならない悲鳴をあげた。
包丁という武器に、雪平鍋の盾。
さらには、大家という風花寮一の権力者である彼に逆らえる者は、この場には居ない。




いつもは、騒がしいくらい賑やかな食卓だが、この日の夕飯は、とにかく空気が重い。
格式高い料亭のように、音を立てるのが憚られる場。
私達が無言で箸を進める中、テレビから流れる音だけがいやに浮いていた。
そんな中、唯一平常であるのが大家さんだ。
上座にて、他の面々のように固くなることなく、優雅に箸を運ぶ。
この時の食事は、いつもの優しい味がしなかった。

なんとか全てを胃に収め、片付けも終わった卓には、湯呑みに入れられた人数分のお茶が並ぶ。

最初に口を開いたのは大家さんだ。

「それでは、聞かせていただきましょうか。なぜ、この風花寮で暴力沙汰が起きたのか」

彼の一声で部屋の温度がいくらか下がったように思う。
にこりと微笑む大家さんに、私たちの血が凍った。