――4年後――





 俺はけたたましく鳴るアラームで目を覚ました。
 未だ閉じたままの瞼で枕元に手を伸ばす。ゴソゴソと手探りで音の根源を辿ると、


――ゴトッ!


 派手な音を立ててそれは落下した。普通ならば真っ先に故障の心配をするのだろうが、俺にはそんな気持ちは微塵も起きなかった。自分で買ったものではないからだ。ある日、「これ、知り合いに在庫取っておいてもらったのよ。あげるわ」と女に無料(タダ)で貰った。超人気メーカーの最新モデル。しかも一番人気のカラーだ。発売から数週間が経った今でも品薄で手に入りづらいとか何とかテレビで言っていた。


(……そういえば、コレくれたの誰だっけ)


 つい2週間前に会った女の名前が思い出せなかった。顔は、なんとなくだが覚えている。


(確かモデル系の……、いや、あれは違う女か。えーっと、全身整形のあの女か? ……違ぇな。アイツはしばらく“メンテナンス”で海外に行ってるはずだ。じゃあ誰だ?)


 そんな事を考えている間にも床に落ちたアラームは鳴り続けている。延々と喚く短調なその音は俺に苛立ちを覚えさせるには充分なものだった。


「あー、うるせ」


 ため息と共に起き上がり、俺はベッドから上半身だけ乗り出して床に手を伸ばした。その時、

「なぁに? せっかく寝てたのにぃ」

 タイミング良く腰に巻きついてきた腕。腰に当たる柔らかい二つの膨らみ。わざとらしい猫撫で声。伝わる生の肌の感触。体温。派手に巻かれた髪の整髪料の匂い、きつすぎる香水。目の前で鳴り続けるアラームの音。名前も思い出せない女に貢がせた最新式スマートフォン。カーテンから漏れてくる朝日。ベッドや床にある情事の残骸。それらは全て見慣れたもの・感じ慣れたもの。そう、慣れきっているものだった。それなのに、

「るせーなッ! 離せクソ女!」

 今日は何故か癇にさわって仕方が無かった。イライラする。腹が立つ。無性に、何もかも、吐き気がするほどに嫌悪を覚える。
 怒号と共に突き飛ばした女の体は呆気なく後方へと倒れ、まるでひっくり返ったカエルのようになった。無様だ。悪意なく、純粋にそう思った俺は思わずハッと笑ってしまった。
 それが恥ずかしかったのか、それとも“キャバ嬢No.1”のプライドが傷ついたのか、女は発狂したように怒り、俺に怒号を浴び返してきた。そして、


「もういい! 謝ってくれないなら別れるからッ!!」


 そんな事を言い出した。勿論床ではアラームが鳴りっぱなしだったが、馬鹿でかい女の怒鳴り声に負けてさほど気にならなくなっていた。
 俺は女が放った言葉を受け、ああ、またか、と思った。この女は違うと思ったが、やはり他の連中と同じか。
 そんな落胆とも呼べる思いでため息をつくと、女は俺が折れたと勘違いしたのだろう。さあ、謝って、私と別れたくないって言って、と書かれた顔で俺を見つめた。その期待に満ちた顔をまっすぐに見たまま、俺は答える。


「何言ってんの、お前。別れるとかありえねーだろ」


「なら早く謝っ――」


「だって俺ら付き合ってねーじゃん」


 その後はお決まりの展開だ。
 俺の言葉を聞き青ざめた女はみるみるうちに鬼の形相となり俺を責め立てる。あらゆる罵声、中傷を浴びせてひたすら喚く。泣き喚き、怒り狂い、まさに般若となる。
 いつもこんな事の繰り返しだ。
 俺は肉体だけ繋がれば、もっと突き詰めて言えば快楽だけあれば相手など誰だっていい。付き合うとか恋人とか、そういうものは必要ない。心など、いらない――……。
 それなのに相手は勘違いをする。何度も肉体を重ねるのは、自分が愛されているからだと思い出す。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。男は穴だったらなんでもいい生き物だ。ただの穴を愛する男がどこにいる。女など街中で貰うティッシュと同じ。向こうから近寄ってきて「どうぞ」と言われるから貰う。貰ったから、使う。使ったから、捨てる。それだけのこと。
 使い捨てのティッシュに愛は愚か情など微塵も湧くわけがない。


「最低!」


 頬に強烈なビンタ。容赦ない平手打ちは意外に痛いものだ。しかしこちらは「最低!ビンタ」をもう数え切れないほど経験してきている。いわば訓練を受けたようなものだ。どうすればダメージを少なくできるかを、俺はもう知っていた。相手が平手をぶち込んでくる瞬間に合わせ、顔を同じ方向へ向ければいい。簡単なようで難しい技だ。相手にバレないように多少は頬をぶたれなければいけないのだから。タイミングを早過ぎると相手が空振り怒りが更にヒートアップするし、逆に遅すぎれば普通に強烈なビンタをくらうことになる。絶妙なタイミングで自然に顔を動かす。マスターするまで多少の時間はかかったが、今ではすっかりお手の物だ。

 女は物凄いスピードで下着をつけ、洋服の前ボタンは留めないまま部屋から出て行こうとした。その時、足元に転がる物体が目に入ったのだろう。未だ怒り収まらないといった目で俺を睨んだ後、女はそれを拾い、思い切り腕を振りかぶって


――ガシャンッ


 フローリングに叩きつけた。俺はその光景をぼーっと眺めたまま、「あーあ」と心底どうでも良さそうな声を出した。
 女が再びキッと俺を見る。しかしそれ以上何かしてくることはなく玄関へと走っていった。
 そのままドアに手をかけ開ける瞬間、


「……ねぇ、リュージ。因果応報って知ってる?」


 突然女はそれまでの狂気じみた声とは真逆な声を出した。冷静で、感情が欠落した声だ。


「因果応報? あー、なんだっけ」


 笑いながら答えると、女は僅かにこちらを振り返り、


「いつか絶対思い知るよ、アンタ」


 馬鹿にするような、それでいてどこか哀れむような顔で、笑った。
 その笑みに背筋が粟立ったのと同時に、女は出ていった。




 沈黙が落ちる。先ほどまで支配していた女の喚きはもうどこにもない。派手な下着も、洋服も、落ちていない。ただ香水の残り香がまだ漂っている。窓を開けて換気をしようかと考えた時、叩きつけられたスマートフォンと視線が合った。こいつが壊される時も、壊された時も、何も感じなかった。本当に、感情が一つも沸かなかった。動揺すらしなかった。そんな自分に呆れる。例え名前を忘れたとしても、女に、他人に買ってもらった品だ。それを壊されても、自分は何も感じない。感じることができない。
 そっと拾い上げる。アラームは止まっていた。画面には罅が入っていた。本体の角が欠けていた。


「壊れちまったな……」


 覗き込んだ画面は真っ黒な鏡と化していた。そこに映っているのは、罅割れた世界で崩れた自嘲の笑みを浮かべる自分自身だった。


「“おまえも”壊れちまったんだな」


 独り言ち、ハハッと乾いた声で笑った。笑い声はすぐに沈黙に飲まれる。静まり返った室内に嫌気がさしてテレビをつける。すると、


『おはようございます。今日は3月――』


 笑顔のアナウンサーが今日の日付を口にした。


(知ってるっつーの)


 わかっている。今日は、“あの日”だ。4年前に、俺の初恋が終わった日。純情が散った日だ。 
 先ほど無性にイラついたのもそのせいだ。今日という日に感情が乱された証だ。
 女に暴れられても、物を壊されても、どんなに酷い罵声を受けても、俺の心は静まり返ったままだというのに、たった一日、この日が来ただけで俺は冷静さを奪われる。
 思い出す必要などないほどに、常にあの日の出来事はこの胸に居座り続けている。常に、常にだ。高校時代も、大学に入ってからも、どんな女を抱こうが、どんな遊びをしようが、常に居るのだ、ここ(胸)に……彼女が。
 
 彼女の言葉が今でも心臓に絡みついたまま、俺を開放してくれない。悲しみから、失恋の痛みから離してくれない。
 彼女を忘れようとすればするほど、それは無駄な行為だと思い知らされる。消えない。消えてくれない。彼女の笑みが、声が、温もりが、優しさが、香りが、思い出が、消えてくれない。
いつまで経っても、俺の心はあの桜の世界から抜け出せない。孤独に降られる桜吹雪の世界から、俺は出られない。だから、現在のこの現実に心が伴わない。あの日に置き去りにされたままだから、俺の心は現在を受け付けない。
 それは傍から見れば哀れなのかもしれない。早くどうにかして立ち直ったほうがいいのかもしれない。とっとと新しい恋をした方がよいのかもしれない。しかし、俺には無理だった。
 だからこそ、快楽だけを求めた。
 一時の関係でもいい。
 肉体だけでいい。
 心などいらない。
 自分にはそんなものない。
 一瞬でいい。
 刹那でもいい。
 快楽で胸の痛みを誤魔化せるならば、例え泡沫の快楽でも、醜い肉欲でもいい。
 何だっていい。
 何だっていい。

……もう……恋など出来ないのだから……。




 そう考えていた俺は爛れた生活を送り続けていた。

 そして、やがてあの女が放った言葉を痛感させられることになる。




――ねぇ、

   因果応報って知ってる?

  
    いつか絶対思い知るよ、アンタ――





To be continued...