「出会わなければ良かったね」

 ハラハラと散る桜の雨を浴びながら、彼女はまるで泣くように笑った。
 その笑顔が、言葉が、あまりに悲しくて俺は身動き一つできずにただ立ち尽くしていた。
 彼女はゆっくりと瞬きをした後、何も言わずに背を向けて歩き出した。
 長い髪を春風に靡かせながら一歩一歩と距離ができていく。真っ直ぐに伸びた背が段々と小さくなっていく。行ってしまう。彼女が、行ってしまう――。
 追いかけたかった。今すぐにその細い腕を掴んで、引き寄せて、強く、強く、抱き締めたかった。
 しかし、

「……」

 できなかった。声すらかけられなかった。彼女の放った言葉が胸に刺さり、重い鉛となって両足を縛っていた。
 動けない。動けない。足が、体が、動かない……。
 硬直した肉体(からだ)。混乱した頭。そこに蘇る彼女の声。

――出会わなければ良かったね――

 水面に露が垂れたように、彼女の声は波紋となって脳、そして全身へ広がり、最終的に心臓へ到達して激しい痛みを起こさせた。胸が軋む、とはこういう感覚なのだろう。ドクドクと嘆きの鼓動が鳴る。俺は太ももの横で強く拳を握り、振り返らない彼女の背を見て確信した。

 彼女にとって俺との関係は過ちだったのだ。
 後悔に価する、消したい記憶なのだ。
 二人の関係を、共に過ごした日々を、重ねた時間(とき)を、彼女は全て無かったことにしたいのだ……。
 なんて愚かなんだろう。俺は、彼女との未来を信じていた。……いや、信じるとかそういうレベルですらない。信じる必要などないほどに、二人は離れることはないのだと、それが当たり前なのだと思っていた。そう、俺にとってはそれが“当たり前”だった。愚かだ。とんだ滑稽な頭だ。誰か嘲笑(わら)ってくれ。こんな愚かで馬鹿な男を、嘲笑ってくれ――。
 そう願う俺を裏切り、世界は沈黙を貫いた。静かすぎる世界。音のない景色。俺はただ立ち尽くし、あんなにも触れていた彼女の背を見送ることしかできなかった。――これが、現実だ。二人の、俺の、現実なのだ。
 桜が降る。別れを祝福するかのように、淡く降り続く。

 遠退く背はやがて見えなくなり、舞い散る桜の中 一人になった。優しく美しい薄紅の世界で、俺だけが一人、孤独に降られていた。






 15の春だった。それは、俺がまだ義務教育を終えたばかりの、3月の卒業式のことだった。
 思春期が頬を薔薇色に染める、青い春の最中のことだった。


 桜の花びらが薔薇色を失った頬をそっと撫でる。同時に何か温かいものも流れた。それはしばらく止まることなく、色を失くした頬に流れ続けた。ポタ……ポタ……と地面に小さな水たまりを作りながら、俺の頬を濡らし続けた。


 そうしてこの日、俺の初恋は散ったのだ――。