「ふわあ~、何冊あるんですか?」

満開の桜の木の桜色のカーテンの下に腰掛けて本を読んでいたリュティアは、本の上に落ちた濃い影に瞳をあげた。

すると木の枝から逆さまにぶらさがった侍女のリィラと目が合った。

「薬草学、薬草大全、正しい知識で薬草を使う本…リュティア様、よくそんなに本が読めますね。私なんて、一冊読むのもいやなのに」

リィラの言う通り、確かに今日はちょっと欲張ってたくさんの本を持ってきすぎたかもしれないとリュティアは思った。けれどそれは彼女の熱意の表れと言えた。

リュティアは熱のこもった声で語る。

「薬草医になるには、もっともっと、勉強がたくさん必要ですもの」

8年前、母の病を知らされてからというもの、リュティアは薬草学の勉強を欠かしたことがない。特に、気持ちの良いこの場所で勉強するのが好きだった。

ここは、花園宮の中に、リュティアのためだけに人工的につくられた小さな丘。

むせかえるように咲き匂う花爪草の桃色や紫色の絨毯の上、一本の桜の木がやさしい木陰をつくっている。

フローテュリア王国の第一王女でありながら理由あって花園宮に隔離され隠されて育ったリュティアにとって、ここは唯一外界を感じられる場所であり、一番のお気に入りだった。

「リュティア様、少し休憩しましょう? 木登りなんてほら、こんなに楽しいですよ?」

そう言ってリィラはぐっと勢いをつけ、ぐるりと両足だけで木の枝を一回転してみせた。それは踊るように楽しげな動作だった。彼女に合わせて桜の花びらが何枚か喜ぶように舞い遊んだ。

リィラはいつもしなやかな野生動物のようにいきいきとして元気な娘だ。

彼女はリュティアと同い年で、同じ乳を飲んで育った乳兄弟である。今はリュティアの侍女として、片時も離れずそばにいる。

「休憩、いいですね! うふふっ」

瞳を輝かせ、リュティアは大事そうに一冊の本を手に取る。

リィラは苦笑した。

「休憩まで本ですか。本当にリュティア様は本がお好きですね。あ、それ、またあの本じゃないですか。“星麗の騎士”――」

それは、深い藍色の表紙に、金の文字でタイトルが箔押しされた分厚い本だった。

「ええ。リィラも一度読んでみてはどうですか?」

リュティアは箔押しされたタイトルを指でなぞりながら、もうとっくに覚えてしまった本の中身の一説をそらんじる。

「緑に緑 青に青 重ねし幾千万の森に 彼の人は住まう

その髪 星の光を集めし金の流れ

その瞳 水の蒼を集めし蒼玉の輝き

吹き渡るは甘い淡緑色の風

それを吸っては吐くように 彼の人は自在に剣を操る

緑を踏みしだく 足音が聞こえぬか

朝日の乙女の逃げ惑う 足音が聞こえぬか

剣にて乙女を救いし彼の人は

その名をそっと 囁くがごとく 明かす―

おお、我が嘆きを静める乙女よ

おお、我が使命を重ねる騎士よ

その心 その夢 なんと愛しきか」

彼女の澄んだ声がうららかな春の空気を震わせると、世にも不思議なことが起こった。

彼女の周りで、まだつぼみだった花爪草が一斉に花開いたのだ。


“叙情詩”は、力を持つ。


この世界では、多くの人々がそう信じていた。

なぜなら各国の成り立ちそのものに、叙情詩が深く関わっているとされているからだ。

叙情詩とは、「叶える」力に満ちた不思議な言葉の流れであり、光神の力が源とされる。

約三千年前、星麗と魔月の大戦が終結した時、光神は世界の人々に叙情詩という力を授けたという。中でもその時に各地で人々が誓った叙情詩が「最初の叙情詩」と呼ばれ、
絶大な力を持って各国を包んだと言われている。

フローテュリア王国の祖は、「最初の叙情詩」で「民の幸福」を願った。

ゆえにフローテュリアは光神に守られ、こんなにも美しい国となったのだという。

フローテュリアでは子供の頃誰もが、叙情詩には不思議な力があると教わり、眠る前に母に詩ってもらう。

その力を信じる。しかし実際は、叙情詩の「叶える」力は数百年も前に自然と薄れ、今では人々が叙情詩を
口ずさんでも、人の心に小さな変化が芽生える程度がふつうだ。

皆叙情詩を大切にしてはいるが、今ではその聖なる力を疑う者も増えてきていた。

それなのになぜ、リュティアの声はこんな奇跡を呼ぶのか。

そのはっきりとした理由を、リュティアは知らない。

しかしひとつだけ言えることは、リュティアにとってもリィラにとっても、
この奇跡が、見慣れたあたりまえのものでしかないということだった。