このエルラシディア大陸には、遥か昔より受け継がれる伝説があるという。

それが、聖乙女(リル・ファーレ)の伝説。

約三千年前、星麗と魔月の大戦があったことは、リュティアも知っていた。しかし、その戦いが終わるころ、光神がこの伝説を生み出したことは知らなかった。

伝説はこう語っているという。

遥か未来に、戦いの決着を託す。それを知らせる存在が、聖乙女(リル・ファーレ)と呼ばれる一人の乙女なのだという。

彼女の特徴は、まずその身に宿す色。

桜色の髪。

薄紫の瞳。

三千年の昔より、黒髪、黒の瞳の者しか生まれ得ぬこの世界で、それは何よりの特徴と言える。

そして女神の現身と呼ばれる容姿の美しさ。

しかし最たる特徴は、彼女が「聖乙女の叙情詩」と呼ばれる特別な叙情詩を読み上げたときに生まれる「癒し」の力だった。

“いかなる怪我をも癒す聖なる手”―まさにリュティアが先程見せた力である。

「聖乙女の叙情詩」は、石版という形で三千年もの間、フローテュリアで守られ続けたという。それこそが、カイが大事に持ち歩いていたあの石版、「星の石版」と呼ばれるものなのだという。

ここまで説明されれば、自分がその聖乙女なのだということくらい、物を知らぬリュティアにもわかった。

しかし、疑問がいくつか残る。

なぜ、その聖乙女の存在を、父王は隠したのか。

桜色の髪、薄紫の瞳を持って生まれたリュティアを見た者は、誰もが伝説を思い出し、その時が来たことを知った。しかし伝説は、同時にひとつの不吉な予言を伝えていた。

「乙女を塵(ちり)とせしめるため 目覚めし魔月の軍勢 永久なる花園を 滅亡せしめる 大戦は再び始まり、人の子ら 滅亡に瀕す」と。

リュティアの誕生はフローテュリア滅亡の時を意味していた。

ゆえに、彼女は隠されたのだ。

隠され、王宮の奥の奥で、何も知らされず、生かされていたのだ。

滅亡の日まで、父が手をこまねいていたとは思えない。しかし、彼の策も、いざ現れた魔月軍の前では儚く散ったということなのだろう。

もうひとつの疑問は、髪の色のことだ。

リュティアが知る限り、彼女の髪は黒髪で、その色が変化したのは今日が生まれて初めてのことだった。カイいわく、誕生した時は確かに桜色であったのだという。しかしまるで何かの力に干渉されるように、彼女の髪色は自然と黒になっていったのだという。そして今日、はじめて力を使ったことで、本来の色を取り戻したのだ、と…。

リュティアは肩口からこぼれる自らの髪の桜色を目にし、どうしようもなく体が震えてくるのを抑えることができなかった。

怖いのだ。

心底恐ろしいのだ。何もかもが。

カイの話が本当ならば、あの二か月前の恐ろしい出来事はすべて、リュティアがいたために起こったことだということになる。そして魔月が執拗に追ってくるのも、リュティアを狙ってのことに違いない。それなのにアクスに護衛を頼むということは、危険に巻き込むことを意味するのではないか。いや、カイをすでに巻き込んでいるのだ。それは恐ろしい以外の何物でもなかった。

カイは言う。

世界のため、再び起こる大戦を勝ち抜くために、リュティアという存在が、その力が、必要なのだと。

なんと恐ろしいことだろう。

人間と魔月が戦うことになるなど、信じたくない。それを自分が背負うなど、信じる以前にありえないと言いたい。

しかし、運命の濁流が自分を押し流そうとしていることを、リュティアは確かに感じていた。それに逆らうすべがないことも。だからこんなにも恐ろしいのだ。

『伝説はこうも伝えている。

“聖乙女、三つの虹の聖具まとい 永久なる花園にて王冠を戴く さすれば再び花園は永久となるであろう その時聖なる力が世界を守るであろう”

と。

リュー、私たちがヴァルラムへ向かっているのは、そこに虹の聖具のひとつが祀られているからだ。伝説の通りに三つの虹の聖具を集めて、フローテュリアを再興しよう。それが世界を守ることにもなる』

カイの熱を帯びた声が耳の底にはりついている。

―「再興」。


実感が湧かない。

滅亡したことがいまだに信じられない。滅亡した、ということは、もう戻れないことを意味するのだろうか。あの平和な暮らしに?

かろうじて理解はしたが、感情がついていかない。

だから、涙も出なかった。

リュティアはただぼんやりと、窓の外の暮れなずむ空を眺めていた…。