リュティアという娘は言われた通りマリアの腕に手をかざすと、カイが懐から取り出した石板―重々しく、長い年月を感じさせる石の板だ―に、視線を走らせた。

そしてその唇から、高く澄んだ声を響かせた。

「 “おお、優しさよ
そのあたたかい胸よ
そは喜びによって生み出されしもの
おお、喜びよ、それこそが光の神なる我の息吹”」

その時、アクスの目の前で信じられない出来事が起こった。

かざした彼女の両手が、満天の星の光のごとき淡い光に包まれはじめた。するとみるみるうちにマリアのちぎれた腕がつながり始めたのだ。

それは奇跡だった。

奇跡を起こしたその淡い光は、ぽうっと輝きを増しながら清らかでやさしい風を巻き起こし、リュティアがいつも深く下ろしていたフードをふわりと背に流した。

彼女の細い肩からこぼれ落ちたのは漆黒の艶やかな巻き毛だった。―いや違う。

アクスが茫然と言葉をなくして見ている前で、彼女の髪の色は淡く光放つような色に変化していった。それはそう―桜色。金糸銀糸をところどころに織り込んだような輝く桜色だ。アクスはこれほどまでに美しい色を見たことがないと思った。

そして髪の色の変化を追うように視線を落としたアクスの目はさきほど以上の奇跡を見た。

アクスは一片の桜の花びらが舞い落ちるような錯覚を覚えた。

自らの起こした奇跡への驚きに見開いた、大きな薄紫の瞳も。

どこまでも透き通る白磁の肌に咲く、花びらのごとき赤い唇も。

すべてが調和し、心に訴えかける絶対的な美を形作っている。

神話の世界から抜け出してきた女神そのものであるかのような美貌が目の前にあった。それは触れれば散るもろい花のような儚さを秘めた奇跡の美貌であった。

美貌の少女リュティアはすでにマリアの腕を完全に治癒させ、カイの指示通り腹の傷の治癒にとりかかっていた。光が放たれ、腹の傷も瞬く間にふさがっていった。

「〈聖(リル)乙女(・ファーレ)〉…」

アクスがあえぐように言った。アクスの胸の中で伝説がとどろいた。

“世界の核 永久(とわ)なる花園に 春の色宿し乙女誕生す
その姿 女神の現し身 その手 いかなる怪我をも癒す聖なる手”

さきほどまでと打って変わって、健やかな寝息をたてるマリアを囲み、しばらく誰も言葉を発さなかった。

フレックスはあまりのことに腰を抜かしていたし、リュティアは自分の手をこわごわとみつめ、アクスは胸の中を稲妻が駆け抜けていった心地でいた。

たっぷりの沈黙のあと、やっとのことで、アクスは声を絞り出した。

「この方は…まさか…」

「そうです」

カイは静かな目をしていた。

真実を語ることを決めた目だった。

「この方こそ、伝説の聖乙女(リル・ファーレ)様。世界の命運を担う方です」

リュティアは弾かれたように顔を上げた。

「私が…? カイ、それはどういう…」

しかしその言葉が最後まで紡がれる前に、リュティアの体はぐらりと傾ぎ、崩れ落ちた。それは桜の花の海に倒れるようにいかにも可憐だった。抱きとめたカイは、何かを悼むようにリュティアを見つめた。


彼女が何もかもを知らないままでいられる時にも、限界が近づいてきていた。