フローテュリアの二人が現れてから三日が経った。

アクスは昨日の夕方の牛乳をバットにあけ、そこに今朝のしぼりたての牛乳を同量いれた。適温になったらレンネットというチーズづくりには欠かせないものを加え、凝乳(ぎょうにゅう)まぜ棒でかきまぜて凝乳化(ぎょうにゅうか)させるのだ。そのあとで凝乳を切り分け、攪拌(かくはん)し上澄みを除去、チーズプレスにかけて熟成させればチーズのできあがりだ。

牛乳が適温になるのを待つ間、アクスは今彼がこもるチーズ小屋の棚に並んだチーズを順番にひっくり返した。

こうして熟成させたチーズを毎日ひっくり返すことで、味も口当たりも良いおいしいチーズができるのだ。アクスのつくるチーズは何年も前から麓の村で評判で、今では固定客もついてアクスの生活を支える大事な収入源になっている。だからチーズづくりのどんな作業にも一切の妥協は許されないのだが…。

アクスは自分が集中力に欠いていることを自覚せずにはいられなかった。原因はわかりきっている。少し視線を上げるだけで、その原因は小屋の窓越しに目に飛び込んでくる。

鳥小屋に身を乗り出して、フードを深くおろした華奢な少女が薬草を鳥の体に塗りつけている。

最初アクスは二人の姿が見えなくなったので諦めてもう去ったのだろうと思った。

だが丸一日経ってから二人は戻ってきた。腕いっぱいに薬草を抱えて。

それからは王女と名乗った娘の方がつきっきりで鳥の面倒を見、護衛官の方は時折アクスを説得に来る以外は食べ物を探しに山の中へ行ったり来たりを繰り返していた。

少女のその細い手は遠目にも真っ赤に腫れ上がっている。つつかれてもつつかれても、薬草を与え続けるからだった。

どうしてそこまでできるのだろうか。通りすがりの鳥一羽のためにどうして。

少女のその様子がアクスを苛むのだ。遠い昔の記憶に今も鮮やかなある人を思い起こさせ、ふさがりかけた
傷口から血を、深い苦しみを噴きあがらせるのだ。それはおさえてもおさえても、間欠泉のようにあちこちから噴き上がってきて、アクスの心は苦しみに悶える。全てが揺るがされ破壊されるような恐怖に駆られる。

十二年前、アクスは全てを捨て、全てから逃げ出してここにやって来た。チーズが評判を得て、やっと娘に
人間らしい生活をさせてやれるようになった。それなのに…。

「早く、早く去ってくれ…」

アクスは無意識のうちに、首から下げた銀の鎖を握りしめた。それは彼のような無骨な男には不似合いな、繊細なつくりの鎖だった。

その時突然ぐらぐらと小屋全体が揺れ、アクスはプレス台で体を支えた。なんのことはない、ここいらでは珍しくもない小さな地震だった。が、今日は音が違った。ガラガラと何か重いものが転がるような不穏な音がする。

外か、と窓の外を見やったアクスは目を剥いた。山の斜面を勢いよく材木の束が転がり落ちてくる。それはアクスが納屋の修理に使おうと集めておいたものだ。その先にあの鳥小屋の少女がいるのを見たとき、何か思うより先にアクスの体は勝手に動いた。気がつくと小屋の外に飛び出し、両手に何か重いものを持って全速力で駆けていた。

「伏せろ!」

立ちすくむ少女の前に飛び出して、アクスは無我夢中で手に持ったとても体に馴染むものをふるった。

それは斧だった。

アクスの見事な一撃で分厚い木材の束は粉々に粉砕された。その技は鋭く無駄がなく力強く、まさしく歴戦の勇者のそれだった。

目の前でひらめいたアクスの妙技に呆然としていた少女が、我に返り何か言おうとしたが、アクスはそれを聞かずに逃げるようにその場を立ち去った。薪割り用の広場に斧を投げ、アクスは自己嫌悪にさいなまれていた。

何も聞きたくなかったし、言いたくなかった。