「そうだ、そういえば、忘れていた」

不意にカイが、孤独の闇を押し返すように明るい声を出した。

目の前に突然出された厚みのある本を見て、リュティアは驚きに目を瞠った。

繊細で美しい装丁が施された藍色の表紙の本。あちこち汚れたり破けたりしているがそれは紛れもなく―

「 “星麗の騎士”…! カイ、これをどこで?」

カイは照れ臭そうに視線をそらしたが、ランプ一つの暗闇の中ではリュティアにそれはわからなかった。

「単に、親方の娘がもういらないからと捨てるところを、もらっただけだよ。何日か前にもらったんだが、言い忘れていたんだ」

何気ない風を装った口調が不自然だった。リュティア程鈍くない者であれば、忘れていたなど大嘘で、彼が心よりの愛情から熱心に本を手に入れてきたことがうかがえただろう。数日前、やけに帰りが遅く疲れ切っていた日があったこととの関連性にも気づいたかもしれない。

「リューのものだ。普段は重いからもちろん私が持とう」

「カイ、ありがとう! カイ」

リュティアはそう言って本をぎゅっと抱きしめた。それだけでカイの努力は報われたに違いなかった。

照れ隠しに、カイは「何か飲み物をもらってくる」と立ち上がった。カイだけを煩わせてはだめだと、リュティアも付き合うことにした。

湿気をもたらす灰色の雲の切れ間から満月が顔をのぞかせていた。初夏を迎えたというのに外は肌寒く、リュティアは外套の前をかきあわせる。

宿の入り口に向かっていると、宿の中から知った声が漏れ聞こえてきた。デイヴィだ。

「…ですね、ええ、満月の日の生贄の娘なら、ちゃんと用意しましたよお役人様。今、家畜小屋で寝泊まりしているリュティアという旅の娘です。忌々しいほど美しい娘ですよ。生贄にぴったりかと。約束のお金はちゃんといただきますからね」

「むろんです。では、今から家畜小屋へ向かいましょう」

話の内容を、リュティアには正確に理解することができなかった。

ただカイの頬が青ざめ、強張っていくのを、リュティアは不思議に思い眺めていた。

カイは痛いほどにリュティアの手を握り締めると、今来た道を駆け足で引き返しはじめた。

「…カイ?」

家畜小屋へ入っても、カイは無言で、かなり焦った手つきで荷物をまとめた。そして「逃げるぞ」と一言だけ口にした。

逃げる? なぜ?

そう尋ねようとしたとき、小屋の入り口で人の気配がした。

カイははっと顔を上げると、リュティアの手をつかみ、猛然と走り出した。

弾丸のように人が飛び出てくるとは思わなかったのだろう、表にやってきていた数人の男たちが、二人の勢いに怯む。その隙に、二人は山道に向けて駆けた。

「逃がすな! 追え!」

背後からそう叫ぶ声が聞こえる。

カイとリュティアは後ろも見ずに、ひたすら走り続けた。