一郎に手を引かれいつの間にか家に辿り着いていた。


その夜は紀久代はなかなか眠れずに布団の中何度も体の向きを変えては「はぁぁ」と深いため息をついていた。桜の樹から降りて来た「コトダマ」と言った男の子が何処に住んでいるのかや伊藤一郎と言う優しい青年の事が頭から離れず仕方なかった。

そうしている間にうとうとと深い眠りに入って行った。


夜になかなか眠れなかった紀久代は何時もより1時間も遅くに布団から出る事になって慌てて外に飛び出し土間の端にある井戸に顔を洗いに行った。

そして井戸の前で足を止めると一瞬息が出来なくなった。その井戸の前で顔を洗っている一郎を見たからだ。一郎は濡れたまんまの顔を紀久代に向け優しく笑うと少し照れくさそうに肩に掛けてあった手拭いでゴシゴシと顔を拭いた。

『紀久代ちゃんおはよう』


そう言った涼しげな一郎の顔が紀久代には眩しかった。



『何で?』紀久代は右手を口に当てながら一郎に聞いた。

『私は伊藤さんの少し遠い親戚で大変な空襲が東京であったんだ。帰還しても帰れる家が無くなったのでここにお世話になりに来たんだよ』



そう話すと一郎は井戸の水を汲んで紀久代に渡した。


そうやって二人は出会ったのだった。


それから八年経った紀久代が十六歳一郎が二十四歳の春に二人は祝言を上げた。

あの大きな桜の樹は二人を祝うかのように満開の花を咲かせた。


白い綿帽子の花嫁衣装に身を包み紅を引いた口元をしっかり結んでいる紀久代の横顏をとても美しいと一郎は思った。


心に奇跡が起きたあの日から二人はシッカリと結ばれていたのかも知れない。


『モウ ヒトリジャナイヨ』


あの日出会った男の子が言った「コトダマ」は確かに紀久代の胸にあったのだった。