『まだ八つやったなぁ。バアは大阪から疎開でここに来たばかりじゃってよう村を知らなんでな迷子になったんよ淋しくてな怖くてなそれでも歩いておったらあの桜の樹にたどり着いたんよ。ほんま心細くてなどうにもならんなって泣いてしもた。暫くしたらな軍服姿の青年が同じ様に迷うて来た仕方ないしな一緒に桜の樹の傍で座っておった』


そう言っておばあちゃんは何かを見ているかのように空気をじっと見て少し微笑んだ。香奈にはその風景が見えるような気がした。おばあちゃんの何だか優しいその姿は母紀子の姿と重なり合うと香奈の胸を締め付けたようで少し恋しくなった。


『続きは?』と急かす香奈の興味深い瞳うを見るとおばあちゃんは『また今度な』と言って悪戯に笑うと二回肩をすぼめた。

『何やバアちゃん勿体無いつけんと教えてや』

そう言いながら香奈はおばあちゃんの肩をツンツンと突つくと笑った。突つかれたおばあちゃんはまた右の空気を見て微笑んだ。


『香奈は誰ぞ好きな男しおるんかな?』

おばあちゃんはまだ右の空気を見つめながら香奈に聞いた。

『おらへんよ』

そう小さく答えると香奈の頭の中にずっと好きで忘れていない人の姿を思い出していた。

おばあちゃんは側にあった新聞広告を炬燵の上に上げると広げ隅に[戀]という字を丁寧に書いた。

『香奈、この字を何と読む?』


おばあちゃんはボールペンのペン先でその字を指しながら香奈に聞いた。


『こい』

おばあちゃんはうんうんと頷くとボールペンでその字をまるく囲みながら


『この字はな恋の難しい字や。よう見てみ[愛しい]糸[愛しい]糸[言う心]と書いてあるやろ?恋はな愛しいと気持ちが言うんよ。バアはなその軍服姿の青年に初めて出会うた時からずっと好きで愛しいと心が言っとった。今でもそれは変らん』


そう言うとおばあちゃんは仏壇に置いて有るおじいちゃんの写真を見て幸せそうに微笑んだ。まるで今も八つの少女のように。


香奈は今しがたおばあちゃんに貰った桜の指輪をはめた右手を頭の上に上げるとまじまじと見つめた。


「愛しい愛しいと言う心」

そう呟いて。