遅咲きの桜が雪のように舞っている。図書館裏の小さな庭に配された木製のベンチに腰掛けて、駿太郎は春の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。学内の桜は、この裏庭と部活棟のある裏手の桜が遅く咲くヤマザクラだった。駿太郎はヤマザクラが好きだ。桜の盛りを見せつけるようにいっせいに咲くソメイヨシノにとてもよく似ているけれど、その盛りを少し過ぎた頃もまだこうしてポツリポツリと咲く。その様がまるで、留年して浪人して同級生から何歩も遅れていまだのんびりとしている自分のことのように思えた。「それでも花は咲く」──ヤマザクラを見るとそう思えてそっと自分を重ねた。
 「ヤマザクラっていう種類なんだよ。ソメイヨシノとは違うんだ」
 少し遅れて咲く桜の話をした時それが「ヤマザクラ」だと教えてくれたのは二年遅れの大学で初めて得た友人だった。友人でそして初めての恋人になった。彼とは半年ほど付き合って、そして羽田に再会して──

 羽田は、どうしているだろうか。就職活動は進んでいるのだろうか。読みかけの本をパタリと音をたてて閉じて、駿太郎はベンチに身体を横たえて桜の枝の向こうに見える千切れたような青空を見上げた。

 「忙しくなるし」
 あの日、ためらいがちにそう言った羽田の声は、駿太郎が記憶の中で反芻していた彼の声よりも幾分低く、会えない理由をいくつも繰り出しては積み重ねた数週間の長さを思った。
 時間さえあれば会っていた二人のデートは、週に二回、週に一回、二週間に一回…と少しずつ減って来ていた。自分でもよく分からない恋心の変化に戸惑って、どうすることもできないままただいたずらに時間だけが過ぎた。きっかけがどちらだったのかなどという問いも今はもう意味を持たない。すれ違う電話、すれ違うメールのやりとりで、ふたりは最後の約束をした。
 惰性のように待ち合わせたのはよくふたりで行った安いコーヒーショップだった。それまでと変わりなくふたりは向かい合い、言いだせない言葉はお互いに手元に置いたまま穏やかに近況報告をした。会わなかった時間を埋めるように言葉を重ねても、いつかのようにその言葉は意味を持っているわけではなかった。埋めるものが何もなくなって、羽田は小さく咳払いをし、どこか駿太郎を思いやるように間を置いてからのんびりと言った。
 「もう…おわりにしようか。」
 ふたりが座ったテーブルのバランスが少し傾げていて、テーブルは不意に傾きペンダントライトの光を反射した。駿太郎はテーブルの下で手持ち無沙汰に携帯電話を手の中で回しながらその不意に光るテーブルの表面を見つめていた。
 「ん…」
 と、駿太郎は小さく答えた。ずっと、この日が来ることを知っていた。遅かれ、早かれ。言い出すのは、自分だろうか、羽田だろうか、それを考える度に「シゼンショウメツ」という言葉が浮かんだ。でもそんな風にあやふやにしないところが、自分達らしい、いや、羽田らしかった。友情の続きのように始めてしまってもよかった二人の関係に「友達じゃない」と言った羽田の潔さはふたりの関係をあやふやなままどこかにしまいこむことも、風化させてしまうこともなく、彼の優しさで今、駿太郎を解放(ときはな)す。
 もしかしたら、待っていたのかもしれなかった。心のどこかに湧き上がる小さな不満や不安が「お前はこの男を愛しているのか?これでいいのか?」と問い続けて、その疑問が形になっていくのを駿太郎はただ見守っていたのだ。打ち消しても打ち消しても湧き上がる疑問に結局は凌駕されるまで。

 『おわりにしようか』
 あれから二ヶ月過ぎて、頭の中で再生される羽田の声はその高さもそのスピードももう不確かだった。ただ、そのとき空気を震わせた彼の声の振動だけが駿太郎の胸を今も震わせる。
 ── 言わせた…。
 千切れた青い空に過ぎった白い雲を見て、駿太郎はまた思った。自分の狡さを思い気が滅入った。
 ── やり直せたのではないか。
 記憶の中の最後の羽田の姿を思い描いて詮無い事を思っては首を振る。

 「しゅんたろ!!」
 まるで高校の続きのように別れた。まるで夢の続きのようで現実味がなく、それでいていやに冴えた頭で「終わった」と思った。ホームに佇んで、名前を呼ばれたそちらを見ると、ホームの向こうで駿太郎を呼んだ羽田が手を振って何かを叫んだ。でもその時電車が来て、電車を見送った後には羽田はもうそこにいなかった。

 遅咲きの桜が舞う。羽田と肩を組むように歩いた高校の渡り廊下から見えた桜は多分ソメイヨシノだった。どこからから吹いてくる風に乗って桜の花びらが吹き寄せたあの喫茶店のドア。思い出す、つぎからつぎへと零れて来る桜のように、記憶の断片が駿太郎に降り注いで来た。

 『大好きだったよ』

 目を閉じても、桜の白い天井が目に映る。
 「大好き、か」
 遅咲きの桜は桜と聞いて思い描く桜よりも少し色が濃い。赤い若葉を映しているのだろうか。撓む程の桜花と赤い若葉の塊の向こうに、千切れて見える青空。流れていく雲。花を啄ばんだ小鳥が飛び立った。駿太郎は仰け反るようにして小鳥を見送った。春の匂いが充満している。駿太郎は勢いよく体を起こしベンチの下に置いたリュックを掴むと、ぐっと背伸びをして歩き出した。




【恋しい人~めぐる季節、また君と出逢う2~】   終 わ り