課題がなくても図書館で過ごすのが好きだ。適度な温度と湿度を保つエアコンの音が耳を澄ますとかすかに聞こえた。駿太郎の前に座る学生はなにかの本を開いたまま頬をテーブルの上に乗せて寝息を立てている。

 大きく空いた天井窓から差す光の中を、長い腕に本を数冊抱えた背の高い男子学生がのんびりと歩いてくる。高科だ。遠くからはピンク色に見える綿杢の赤いカレッジセーターを模したパーカーを着ている。高科の部屋であのパーカーを借りたことがあった。素肌に羽織った時、その体格差を物語った頼りない着心地を今でもはっきりと思い出すことが出来た。内側が起毛になっている柔らかい肌触り。自分の家とは違う柔軟剤の香りに混じっている高科の匂い。匂いの記憶とは不思議だ。どんな匂いだったかと問われたら言葉にすることはできない。それでも、絵画のように再現される記憶の中に漂って、いつか同じ匂いを嗅いだら、確かにそれだと答えることができそうだった。高科のパーカーを羽織って縮こまった自分の足の爪、うずくまると頬に当たる襟元の金具の感触、そして、熱に浮かされたように自分を呼ぶ声にかっと身体が熱くなる瞬間立ち上った高科の匂い。──『駿…』
 駿太郎が一瞬にそれらを思い出したその時、学習席の並びが始まる少し手前で高科が不意に足を止める。おそらく近眼の目を細めて高科は今、駿太郎を認めたのだ。躊躇うように俯いて、またのんびりと歩き出した高科は林立した書棚へと入っていった。そして多分、そのまま図書館を出て行くのだろう。
 同じ大学にいて、学部は違えども総合教科を取る事も多い二年目課程だ。今年は去年程ではないにせよ、一つ二つ同じ講義を取っていた。講義室では前方の右端と左端に席を取る。教壇に集中しようとすればするほど目の端に入る相手を意識してしまうのはお互いさまだろうか。
 構内でこんな風にばったり会わない方がおかしい。こんなに近くで気がついたのは今日が初めてだったけれど、おそらく気づかなかっただけで高科も今まで何度でもこうして自分を避けたのだろうと思った。そう思って胸を痛める駿太郎自身、遠くから高科を見つけるたびに、気づかない振りでそこから逃げ出していたからだった。

 机の上に置いた携帯電話が震えた。木製の机の上で携帯電話がのたうつその音はまるで学習スペース全体に響き渡っているのではないかと思う程大きな音に聞こえた。駿太郎の前で居眠りをしていた学生がもったりと身体を起こして自分の肘を掴んで伸びをした。駿太郎は慌てて携帯電話を取り上げ、目の前の学生に少しだけ会釈をするようにして、荷物をそこに残したまま、図書館から広い芝生のグラウンド側に張り出したバルコニーのようなところへ出て行った。
駿太郎が通話ボタンを押したのと電話が切れるのはほぼ同時だった。
── 着信 羽田裕人
発信ボタンを押すのをためらうのは、先ほど高科を見たせいだ。発信ボタンに乗せた親指をまた放す。
 『電話ごめん。いま図書館にいて取れなかった。どした?』
 カチカチとメールを打ちながら学習席に戻った。程なく返信が来る。
 『なんでもない。声を聞きたかっただけだよ。裕人』
 携帯電話を手にした羽田が俯いて、じっと携帯電話が震えるのを待っている姿が脳裏に浮かんだ。そしてその姿は不意に、この図書館裏の喫茶室の前に佇む羽田の姿となる。高校を卒業して2年経った冬、まさにこの大学の図書館で羽田と再会した時、あえて触れない話題に気付かない振りをして懐かしい思い出話に花を咲かせた場所だった。
 ── 平賀、やっと見つけた。
 ── 平賀に、会えるかなって思ってた。
 ── 平賀・・・
 ── ヒラガ・・・
 声変わりをした不安定な声で自分を呼んだ高校生の頃の羽田の声と、幾分低くなった羽田の今の声が、和音のように駿太郎の耳に奥で重なり合う。その耳の奥で、しゅんたろ?と「う」を発音せずに呼ぶ、彼の一番好きな呼び方で、羽田は優しく駿太郎を呼んで、駿太郎は胸がきゅうと縮こまるのを合図にしたように、早足で図書館をグラウンド側のバルコニーの方へ出て行きながら携帯電話の発信ボタンを押した。

 「羽田?」
 「なんだ、懐かしくなる、その呼び方。」
 「あぁ、うん、いまね、あの頃のこと思い出してたからだ。」
 「そうなの?どんなこと?」
 「ふふふ。秘密だよ。ね、俺も会いたい。四限終わるの4時半なんだけど。」
 「俺は会いたいなんて言ってないけど。声聞きたい、って言っただけ。」
 「じゃ、いいや。予定通りに…」
 「嘘。会いたい。会いたい・・・!会いたい!!」
 
 電話の向こうで羽田が身体を折り曲げるようにして受話器を握り締めている姿が浮かんだ。雨垂れの跡が残る白い校舎の壁際に、羽田は右肩を押しつけるようにしている。右手で持った携帯電話の方に頭を傾げながら左手で口元を押さえて、小さく、だけど荒々しく、「会いたい!」と受話器に告げる彼の表情は、いつも彼が駿太郎の中で爆ぜるときのように眉を顰めていた。
 だだっこのような羽田の拙いような言葉の使い方に駿太郎は小さく笑った。可愛いな、と思わず呟いた駿太郎の言葉に遺憾の意を唱える羽田は、おそらくは受話器の向こうでふくれっ面をして、講義が終わったら待ち合わせようと言う。小首を傾げて時間と場所を確認して、駿太郎はグラウンドの横の並木道を横切っていく高科を見つけた。逸らす事ができない目線をそのままに、小さくなっていく背中を見守る。しゃんと伸ばした背筋、コットンのモッズコートがふありと撓んでから彼の背に貼り付く。まるでつぶさに見えるのは、あまりにも見慣れた後姿だからだ。背中からでも分る──風を受ける前髪がどんなふうに揺れたのか、風を除けて俯く一瞬に眇めた目がどんな風に細まったか。少し風のある日には、あの並木道ではいつも強い風が吹いた。春なら春らしく、夏なら夏らしく、秋なら秋らしい風が吹き、冬なら冬の風が吹いた。四つの季節を移ろった、あの風の中にいた自分たち二人は、もういない。友情と友情を超えた気持ちをあの風の中に散らした。そしてそれは、駿太郎自ら。

 「しゅんたろ?」
 と、恋人が受話器の向こうで呼ぶ。
 「うん。」
 と駿太郎は答えた。