ユーダリル


 こうなってしまったら、やることはひとつしかない。それは、何も言わずに逃げることだ。

 無論、失礼なことは間違いない。しかしいつ終わるともわからない喧嘩を見聞きするのは、精神的に悪い。それに何より、巻き添えを食らったら大変だ。そうなると、ますます逃げ出せない。

「……い、行くよ」

 何も言わずに行くというのは心苦しかったので、小声でそのことを伝える。そして一歩一歩と後退していく。

 その不可思議な姿にディオンは首を傾げるも、ウィルの後をついていく。ディオンの場合、ドシドシと足音が響く。しかし親子は、音に気付いてはいない。喧嘩に熱が入ってしまい、周囲の音が聞こえないようだ。

 それが幸いしてか、ウィルは何事もなく逃げることができた。これもまた、微かな幸運というべきだろう。思わず、神に感謝してしまう。

「ディオン、しゃがむ」

 その声に従うように、ディオンは草の上にしゃがむ。すると遊んでくれるのと勘違いしたらしく、ディオンが襲い掛かってきた。

 口を大きく開け、ウィルの頭を甘噛み。お陰で、唾液でベトベトに。ウィルにしてみたらディオンの背中に乗り、目的の場所に向かおうと思っていた。だがディオンのおいたの所為で、家に帰らないといけなくなってしまう。

 この生臭い香りは、朝食に出した生肉だろう。一食の食事の量は半端ではないので、それに比例して臭いもきつい。

 全身から漂う匂いに、一瞬にして気分が滅入る。あまり匂いが酷くなければ、このまま目的の場所に向かっていただろう。しかし、このままでは無理だ。何より、周囲に迷惑が掛かってしまう。

「……ディオン」

 顔にベッタリとつく、粘ついた液体。それを丁寧に拭っていくと、物凄い形相で睨みつける。

 そのいつもと異なる表情にディオンは身体を小さくすると、悲しい声で何かを訴えかけてくる。

「毎回、同じことを言わせるな」

 次の瞬間、溜まっていた怒りが爆発する。ウィルの絶叫は青空に響き渡り、吸い込まれていった。

 無論、この声は喧嘩をしていた親子にも届く。いきなりの叫び声に身体をピクっと震わせると、何が起こったのかと視線を向ける。すると、遠くでディオンに説教をするウィルの姿があった。その姿を見ていたのは、この親子だけではない。声を聞きつけ、大勢の人間が集まってきた。