「若宮がお生まれになってすべてが完成された。大明神と約束されて
おられたのじゃろうな」
「なにをでございますか?」

「全てが達成されたら後の命は大明神に捧げますということじゃったのやろう」
「ああ、おそらくそのような。若の出産を確認すると何の迷いもなくすぐに
御出家なされました」

「全ては入道殿の強き一念のなせる業じゃった。紫上も出家を望んでおったが
わしは強くそれを拒んだ。なぜ病に伏したかの原因にも思いが至らなんだ。
女人は出家で成仏できるものかと思っておったからのう」

「父上にこよなく愛されたお方だと思いますが?」
「ああ、それはまちがいあるまい。しかし出家とはまた命に迫る極みが違う。
幸せ感が全く違うような気がするのじゃ」

「幸せ感?」
「そうじゃよ。幸せ感。蔵の宝より身の宝、身の宝より心の宝じゃ」
「はあ?」

「確かに上はわしの愛情を一身に感じておったと思う。身も心も。見えるものすべてが
充実していたかに見える。確かに子はいなかったが、それも中宮に妃としての教育に
心は充実していたろう。すべてが移ろい通り過ぎて行く。仏の悟りを生死即涅槃、

煩悩即菩提とは言うが、生死(苦悩)がそのまま涅槃(悟り)。煩悩(欲望)が
そのまま菩提(悟り)。過去の色恋、悩み、苦しみすべてが楽しみ、喜び。生きて
いるといろいろなことが次々に起こる。それがそのまま楽しくてしようがないという
境地になるには死を意識してからのようじゃ。その直前に人は皆病に落ちる」

日は西に傾き長い影に蜩(ひぐらし)が遠くに響いています。人の命も日暮れの頃は
身に染みて心悲しく感じ入ります。それでも喜びを感じられるか、紫の上は出家に
それをかけていたのでしょうか?

西山に  沈む夕日に  人の身の
宿世も今の  心にこそあれ

長い長い牛車の影が嵯峨野の道をゆっくりと東に向かいます。