桜井希望梨と笠倉稔の間にはこの10年に色んな歴史がある。それは決してロマンチックなものではなく、戦いの歴史とも言えるだろう。二人の戦いは桜井家がこの街に越して来た事から始まった。
小2の春、そう、ちょうど今と同じ季節だ。希望梨は慣れ親しんだ街を離れ、一年だけ通った小学校から転校した。幼くとも友達がいて、自分の世界はもう確立されていた訳で、親の都合で引越しするのは嫌だった。今のマンションでいいじゃないか。本屋さんを始めるから…って何で今の街じゃダメなのか。ちょうどいい物件があったのが引越し先の街なのよ…と母は言うが幼い彼女には理解出来なかった。反論しても大人にかなうはずもなく、否応なしに引越しとあいなった。
そして二年生の春。希望梨は仏頂面で黒板の前に立っていた。新しいクラスメートを前に緊張していたのだが、はた目にはケンカを売っているように見えた。クラスメートは一年生から持ち上がりのクラスで、希望梨には分からない、知りようのない一年があった。二年毎のクラス替えだったのだ。
担任は若い女性の先生だった。先生が黒板にさらさらと希望梨の名前を書いていく。「桜井希望梨ちゃん」と丸っこい、女子高生のような字で横向きに書かれ、さくらい ゆめりとふりがなも追記された。
「○○小学校から転入して来た桜井希望梨ちゃんです。皆さん、仲良くしましょうね。この学校の事はまだ分からないから皆で色々教えてあげてね」
先生は判で押したような決まり文句を言って、満足気に児童を見回した。そして、希望梨にも挨拶をさせようとした時、一人の少年が挙手した。
「ええっと、君は…」
持ち上がりのクラスとはいえ、一年生の時とは違う担任の先生である。先生はまだ児童の顔と名前が一致していなかった。
「あぁ笠倉君ね…」
名簿と照らし合わせながら先生がつぶやくと、それを合図とばかりに少年は立ち上がり話し始めた。
「塾で習った通りなら、『さくらい ゆめり』とは読まないよ。『さくらい きぼうなし』です」
先生の顔が歪み、クラスメートは爆笑の渦に包まれた。先生は何か言わねば、と思った。しかし、先生になって二年目の彼女は咄嗟にはどう対処すべきか分からなかった。しかし、希望梨は知っていた。気がつくと、黒板の前から少年−笠倉稔の机の前まで歩いていた。そして稔少年の机の上にあった教科書で、彼の頭を叩いたのである。