悠河も執務机の脇で止まった。固い表情で足を止めた華を見て思い出す。
最近の彼女はいつもこんな表情だ。来たくないのに、呼ばれたから仕方なく来たというのがありありとわかる。
悠河は抱きしめようとした手に力を入れ、拳を握る。そして腕を組み、まるで華を観察するよう目をすがめた。

「君は、本当の華…か?」

「は?」

「こんなところに、なぜ来た」

「なぜって言われても…」

「華はずっと俺を避けていただろう。そんな君がどうして俺の元へ来るんだ。…そうか。俺が作り上げた幻ということか」

「え?」

悠河は再び夕暮れの広がる窓へ歩み寄り、華に背を向けた。長身のすらりとした悠河の背を、オレンジ色の光が照らす。やわらかな髪が栗色に輝く。

「華が来るなんて、そんなことありえんな」

「ありえないとか、幻だとか、悠河勝手に決めつけないで。私、ちゃんとここにいるじゃない」

「だから、それがありえないと言ってるんだ」

「だから、何で? 私、気づいたら社長室のドアの前にいて、ドアを開けたら悠河がいて、入ってきたら、なぜ来たんだとか言われて…。悠河が何を言っているのか、全然わからない!」

「わからなくて結構だ。こんな俺を放っておいて、君はいつものように逃げ出したらいい。どうせ俺はこの場所に閉じ込められて動けない。ここから何度も出ようとしたが、無理だった。そんな時君が現れた。俺の顔を見ると、逃げ出していた君が。…来るわけがないだろう。俺の作った幻想ならば、もういい。消えてくれ」

悠河は背を向けたまま、投げ出すように言った。窓に片肘をつき、長い指で眉間押さえる。
やつあたりするように、イライラをぶつける悠河。背中に疲労が色濃く漂っている。華の胸に得体の知れない不安がよぎる。
いつもの悠河ではない。悠河の身に何か起っている。きっとそれは、とてつもなく大きな事だ。このまま帰れと言われても、帰れるわけがない。放っておけるわけがない。
華は窓辺の悠河に近づく。

「帰らない。私、幻なんかじゃないよ。本当に、本物」

目の前に長身の背中。華はそっと手を伸ばそうとした。が、触れる一歩手前で躊躇してしまった。夕焼けに染まる街を映すガラス窓に、華の白い右手が浮かぶ。

「私、会いたくて。悠河に。本当に会いかったの。信じて」

悠河がゆっくりと振り向いた。何か救いを求めるようなまなざし。悠河のそんな目、見たことない…。切なさと愛しさが華の胸に押し寄せる。

「悠河にどうしても会いたくて。だから来たの」

胸が痛い。華は宙に浮いた手を自分の胸に当て、握り締める。

「信じて。お願い…」

悠河は、華とまっすぐに向き合った。目を細め、華の気持ちを推し量るように見つめる。
華は一歩悠河に近づき、その両腕をふわりと掴んだ。お互いの触れ合った部分から、やわらかな光が全身に広がった。
一瞬にして抗えない強い思いが、二人を包む。

――会いたかった

華はためらうことなく、悠河の胸の中に飛び込んだ。四つの腕がお互いをしっかりと抱きしめる。
悠河は華の髪の毛に顔をうずめる。

――ああ、あの社務所で過ごした夜と同じ匂いがする。華だ。本物の華と信じていいのだろうか。
華は悠河の胸に顔をうずめる。

――この感じ。ああ、悠河だ。ずっと前からこうしたかった。会いたかった。涙が溢れ出す。


その時、華はぐらりとめまいに襲われた。
脳裏に深夜の悠河の電話からの一連の出来事が、洪水のようにフラッシュバックする。息を飲む。
悠河は事故に遭い、意識不明の重体だった。
こっちの悠河はこうして元気なのに、ここから出られないと言う。
一体どっちが本当で、どっちが夢なんだろう。華は戸惑いをそのまま、言葉として迸らせる。

「悠河…事故に遭って、意識不明の重体で、もうダメだって…。私、どうしたらいいかわかんなくって…」

華は強く悠河のスーツを握り締める。手の震えを止めようとしたが、止まらない。悠河の胸に顔を押し当て、その鼓動を確かめる。

「夢だよね? 悠河、こうして元気なんだから、事故なんて夢だよね? でも抱きしめてくれるなんて、ありえないし。ねえ、どっちが本当? 私、わからない!」

最後は怒ったように華は叫んだ。
悠河は華の剣幕に戸惑ったように、少し身を引く。華が不安そうに顔を上げる。