…Side Shot 悠河…

悠河はハッとソファから身を起こした。うたた寝していたのか…。
壁の時計を見る。5時35分。窓の外には雨上がりの夕焼けが広がっている。どのくらい寝ていたんだろうか。
執務机に戻る。パソコンの電源が落としてあった。急いでスイッチを入れる。これからの予定がすぐさま頭をめぐる。接待の料亭に行く前に、ミズキとの共同制作の企画書に目を通さねば。来春の新作化粧品発表会については、演出家との交渉が難航しているらしいが、一度話をするべきか。
気づくとパソコンは、黒い画面のまま全く動く気配が無い。悠河はもう一度強めにスイッチを押す。全く起動音がしない。壊れたか。悠河はインターフォンに手を伸ばした。

「紫音。パソコンの調子がおかしい。すぐに来てくれないか」

悠河はどっかりと椅子に腰を下ろし、ため息をついた。これがダメになると、あの書類もあのデータも。バックアップは出かける前に取ったからすぐに復旧できるが、手間が増えた…。
紫音の来る気配は一向に無い。悠河はイラつきながら大股でドアに向かう。何がこんなにイラつく。何かおかしい。悠河はドアを乱暴に開けた。
強烈な違和感が悠河を襲う。いつもは秘書や社員でざわめいているはずの部屋が、しんと静まり返っている。誰一人いない。静寂がただ広がっている。

――これは…何だ。

ふと柱の時計を見上げる。5時35分。先刻と同じ時刻を示している。腕時計。近くの机の時計。全て5時35分を指したまま、固まっている。
時が…止まっている? 一体何が起っているんだ。ここは本当に美都美容本社か。
うたた寝から目を覚ます前、俺は何をしていた? 

「出かける前に…」 

先ほど頭に浮かんだ言葉。
そうだ、俺は記者会見のために、ホテルへ行った。そしてその後響と会うために歩いて…。
その先を思い出そうとしても、ぷつりと記憶が途絶えている。
何か、重要なことがあったはずだ。霞がかかっているようで思い出せない。手を伸ばすとあっという間に霧散してしまう。
できるだけ冷静に考えよう。この時の止まった世界は、現実ではないのだろうか? 夢の中か?
ふっと自嘲的な笑いが悠河の頬に浮かぶ。俺は夢の中でも会社で仕事か。
悠河は部屋へ戻り椅子に深く腰をかけ、タバコに火をつけた。紫煙が細く立ち昇る。ため息とともに吐き出した白い煙が、夕暮れの薄暗い部屋へ拡散していった。
時間の止まったこの空間で、どれだけ過ごせばよいのだろうか。
永遠に続いていくのだろうか。たった一人で。

……たった一人?

悠河は、がたんっと椅子を鳴らして立ち上がり、社長室から駆け出す。
どこかに誰かがいるかもしれない。
エレベーターのボタンを押す。が、何も点灯しない。そもそも階数を示すランプも消えている。
階段だ。
エレベーター脇の防火シャッターを押し、冷たく薄暗い蛍光灯の照らす階段を下りる。

カンッカンッカンッカンッ…
自分の革靴の音が神経に障る。すぐ下の階の扉を開ける。
が。そこには社長室へと続く廊下が広がっていた。

どういうことだ。階を間違えたのか。

悠河は階段室へ戻り、もう一度下り始める。
踊り場で階数表示を確かめようとするが、暗すぎて霞んだように数字が見えない。嫌な予感がする。重い扉を開ける。
やはりそこには、社長室へと続く廊下が広がっていた。
悠河は震える手で秘書室のドアを開ける。
先ほどと寸分たがわない内部。同じ書類。同じパソコン。同じ机。同じ椅子。5時35分を示す時計。まるでコピーしたかのように変わらない風景が並んでいる。
そしてその奥には、社長室のドアが重苦しい夕闇の中にあった。
ここから出られない、ということか。
悠河は重い足を引きずるように社長室へと入り、自分の椅子へと倒れこんだ。