――ピー


不規則な山を描いていたモニターの波形がなだらかになる。甲高いアラーム音を看護師が消す。
医師が聴診器を悠河の胸に当て、静かに外しそして目礼した。


――シューッゴー シューッゴー

命を失った主に今なお規則正しい空気を繰り出す人工呼吸器の音が、病室に虚ろに響く。


――プツッ


スイッチが消された。突然の静寂。
悠河の胸の上下も止まった。

全てが、止まった。

静かな一瞬。

医師と看護師が目を伏せ、深く一礼をし、去っていく。



どこからがあの世界でどこからがこちらだったのだろう。それすらも華にはよくわからなかった。桜の木の下にいたはずなのに、気づいたらここに座っていた。

涙が…出ない。
まるで生きているような悠河の顔、まだ温かな手。
華は涙を流すことも動くこともできず、悠河の手を握ったままぼうっと座っていた。

「ねえ、悠河。起きて。悠河」

悠河の顔に触れる。

きれいなまつげ。

彫りの深い目。

大好き。

柔らかな髪、

形のよい耳、

すっと通った鼻筋、

ついさっき私にキスをしてくれた唇。

何も変わっていない。

変わっていないのに。

ゆっくりと後ろを振り向く。紫音がうつむいていた。肩が震えている。
私、何で涙が出ないんだろう。さっき悠河を引き止めてた時はあんなに必死に泣いていたのに。
ずっと握っている手からは、少しずつ体温が失せていくのがわかる。肌が徐々に青白く透き通っていく。上下することの無い悠河の胸を見つめる。


――なぜ私はここに、こうして、変わらずに生きているんだろう。悠河はいないのに。なぜ何も変わらないんだろう。こんなにも大切な人を失ったというのに。私の心臓はこんなにも痛いのに。なぜ私はこうして生きている。なぜ。


やるせない思いがぐるぐると華の頭を回る。


いつまでそうしていたのだろうか。気づくともうすでに悠河の手は冷たくなっていた。


――ああ、もう戻れない。


絶望がのろのろと華の胸に染み込んでくる。それでも華は涙が出なかった。


紫音に促され、華は部屋を出た。どうやら機械を外す処置があるらしい。自分の周りでそんな話がされていたようだが、耳にも頭にも入って来なかった。

「華ちゃん。大丈夫?」

久しぶりに聞こえた言葉。

「え? …あ…はい」

「真っ青よ。少しソファで横になりなさい」

待合室の窓からは明るい朝日が差し込んでいた。窓の外では満開の桜が朝日を浴びて白く輝く。

華は反射的に顔を背け、目を閉じた。桜なんて、見たくない。

「悠河は幸せね。こんなに愛してくれる人に見守られて」

華は激しく首を振る。

「悠河の方がいつも私を見守ってくれてたんです。さっき、これからも見守るからって最後に言ってくれて…」

胸がぎゅっと痛くなる。熱い塊を感じる。そしてそれは一気に全身をめぐった。

「ありがとう、悠河」

声に出して、マヤは言った。

「ありがとう、悠河……悠河……ゆうが!!!」

涙が堰を切ったようにあふれ出す。


――もう、いない。悠河は、もういない。


華は紫音にしがみつくように泣いた。



朝日が光を増し、泣き疲れてソファで横になる華を包み込むように照らす。体がほのかに温まってくる。紫音は何も言わず華のそばに座っていた。
周囲ではあちらこちらの病室からざわざわとした音がし始める。こんな日でも日常は変わりなく続いていく。人が一人死んでも、世の中は何も変わらないんだ。


たとえ私にとってどんなに大切な人がいなくなったんだとしても――


華はぽつりとこぼす。

「月下美人の地方公演の稽古、明後日からですよね」

「無理だったら休んでいいわよ。調整させるわ」

「いいえ。予定通りでいいです。…でも、美都芸能が混乱しているなら、公演自体が取りやめになったりしませんか?」

「大丈夫よ。きっと。美都としても大きな舞台ですもの。すでにチケットも完売しているし」

「よかった…」

華はほっとしたように微かな笑顔を浮かべた。

「私にはお芝居があるし、お芝居しかない…。悠河が言ってたんです。私の月下美人の中で生き続けるって。だから私、何がなんでもやりたいんです」

「そう…」

泣き崩れるだけでなく、悠河の言葉を胸に華は前へ進もうとしている。


――私がこれからこの子を支えていきます。悠河。見ていて下さい。

紫音は華に笑顔を返した。

「がんばりましょう。華ちゃん。一緒に」

「はい。紫音さん。よろしくお願いします」



看護師が呼びに来る。もう部屋に入ってもいいということだった。
「華ちゃん、私は色々連絡しなければならないことがあるから、あなた、先に病室へ行ってて」

「あ…はい」

紫音はしんとした眼差しで華を見つめる。

「あのね。華ちゃん。あとは美都家の人に引き継ぐから、あなたが悠河と過ごせるのはもう今しかないの」

そうだった。私はずっと一緒にいられるわけじゃない。他人だから。現実では。

「…はい」

華は病室のドアを開ける。今までベッドの回りにあった呼吸器の機械やモニターがすべて無くなり、がらんとしたベッドに悠河が一人横たわっていた。
白い浴衣で眠る悠河には静謐な美しさが漂う。

華はいつものように悠河の手を握ろうとした。が、悠河の両手は胸の上に組まれ、白い布でしっかりと結ばれていた。


――ああ、本当にもう戻れない

華は悠河の頬に指を伸ばす。チューブを固定していたテープの跡が微かに残る。指でなぞる。
華の心に悠河の低く柔らかな声が響いた。


『俺はこれからも君の中にいる。そして君の月下美人や今後君が出会う芝居の中で生きる』

「…はい」

『君が生きている限り、俺は君の中で生き続ける』

「…はい」

『きっとまた会おう』

「…はい、悠河。きっと」

華はそっと目を閉じ、悠河の唇に自分の唇を合わせた。


それは、初めての、そして最後の、本当のキス――