「それができないご身分なのね」
篠崎は立ち上がり、紫音の肩に軽く手を置き空のカップを持っていく。

「もう一杯いかが?」

「そうね。いただこうかしら」

「紫音は少し糖分を取った方がいいと思う。勝手ながら今度は甘いミルクティーにしてあげる」

「ありがとう」

篠崎は紫音に背を向け、新しい紙コップにティーバッグを入れポットのお湯を注ぐ。ふわりと湯気が立ち昇る。

「私、こんなところに勤めているから、死が日常なのよね…。それでね、思うの。せめて最期の時はゆっくり過ごせたらなって」

篠崎は紅茶に砂糖とクリームを入れ、ゆっくりとかき混ぜる。

「集中治療室って、それまで普通の生活をしていた人が突然の病気や事故で入院されることが多いの。治療して良くなっていけばいいんだけれど、ばたばたとしたまま死を迎えてしまう人もいる。だから、そういう場合には、せめて最期の時だけでも患者さんが本当に心許せる人とゆっくり過ごさせてあげたいな、って思う。私はあきらめろと言っているんじゃないのよ。わかるかしら」

「ええ」

篠崎は紫音の前と自分の前にたっぷりと入ったミルクティーを置く。湯気の中にやわらかなミルクの香りが混ざる。

「この集中治療室で見知らぬ病院の人間や機械に囲まれて、最後の最後まで懸命に治療する…それも正しいことだと思う」

篠崎はカップを持ち、ごくりと飲んだ。紫音もカップを持つ。眼鏡が湯気で一瞬曇る。

「でも、それが果たしてその患者さんにとっていいことなのか、いつも悩む。あくまでこれは私個人の考えよ。看護師としてはご家族の意向を一番に考えて、全力を尽くすけれど」

「…わかっているわ」

「ご希望があったら、いつでも特別室を使えるように押さえてあるから、言ってちょうだい。まあ、特別室といっても、普通の個室よりちょっと広いぐらいだから期待はしないでね」

「ありがとう。そちらの方が華ちゃんも悠河とゆっくり過ごせるのよね」

「ええ。もちろん集中治療室での治療を最期までってご希望ならば、もちろんそうするわ」

「会社の派閥の中にはたとえ死んでも甦らせろ、なんて言ってる人もいたけど」

紫音は肩をすくめる。

「ホント、社長さんって大変ね」
「本当に」

二人はしばし黙ってミルクティーを飲む。壁の時計がかちりと2時を指した。
紫音は一つ息を吐くと、紙コップをテーブルに置いた。コンと軽い音がする。

「先生は言葉を濁していたけど…ねえ、正直言って、悠河、あとどれくらいもつかしら」

紫音は篠崎を見つめる。

「私にはわからない」

「はぐらかさないで」

「…元が健康な方だから、がんばれるとは思うけど」

「1か月とか…?」

篠崎の目が思案するように揺れる。紫音の視線がぴたりと貼りつく。篠崎は根負けしたように言った。

「それは厳しいんじゃないかしら」

「1週間…?」

篠崎は躊躇しながらもうなずいた。

「あくまでも目安、よ。個人差が大きいから、正確な予測は無理よ」

「でも、だいたいはわかるでしょう?」

「経験上…それくらいの可能性が高いってこと」

深いため息とともに紫音はつぶやいた。

「そう。あと、1週間…」

紫音は立ち上がり窓辺に寄る。ブラインドの隙間から下を見下ろした。静かな夜の街が広がる。そして暗闇の中でつぼみを枝いっぱいにたたえた桜が街路灯に照らされて淡く白く浮かびあがっているのが見えた。