悠河は宵闇の濃く広がる社長室にいた。立っているのもつらい。椅子に深く身を埋める。
やはり一人でいると消耗が早い。美妃のところへはすでに道筋が出来ているようですぐ飛べた。しかし、今度はかなり厳しいだろう。こんなに消耗するのでは父のところまでたどり着けるかどうか。不安が過ぎる。


――それでも行かなければならない。華を守るために。


悠河は目を閉じ、心の針の先が指し示す一点に集中した。長年過ごした美都家の屋敷へ、父・秀樹の元へ。




整えられた枝振りの松と枯山水を望む部屋に秀樹はいた。車椅子にもたれ、じっと庭を見つめている。
悠河は実体を表すことがもはやできなかった。声のみが秀樹に届く。

「お父さん」

「悠河か。どこにいる」

厳しく冷たい声が応える。

「僕を見ることはできませんよ。あなたに早々と治療を打ち切っていただきましたから、そんな力は残っていません」

「笑止千万だな。わしのせいにする気か。お前がまぬけなだけだ」
「ええ。そうかもしれませんね」
「お前のせいで美都は混乱しておる。迷惑をかけたと詫びるのが筋ではないか」

「僕一人の不在でぐらつくような会社では先行きが不安ですね。優秀な重役や親族がお父さんを支えてくれるのではないですか」

「役に立たんやつらばかりだ。まったく、お前を後継者に育てたわしが馬鹿だった」

「何とでも言ってください」

秀樹はくるりと車椅子を回し、室内に目を光らせる。

「悠河。お前がいつまでも月下美人の上演権を美都名義にしなかったのも混乱の原因だぞ」

「それは単にあなたが月下美人を独占したいだけではありませんか」

「独占しているお前に言われたくはない。おまけにぐずぐずと美妃さんとの結婚を延ばしおって。常陸宮との業務提携も白紙に返され、大損失だ」

「美妃さんとの結婚は無理だったんです。破談は時間の問題でした。彼女も分かっています」

「色恋沙汰で結婚する気だったのか、お前は。馬鹿馬鹿しい。常陸宮の力がどれほど強大なものかよく知っておるだろう。美都が飛躍できる絶好のチャンスであったものを」

秀樹の頬がゆっくりと引き上がり、冷笑が浮かぶ。

「…それともあれか。お前は執着するあの雪島華とでも結婚するつもりだったのか。美都総合商社の社長が、一女優と。あんな小娘と。お笑い種だな」

悠河は拳を握り締める。ここで挑発に乗ってはいけない。

「月下美人はお父さんに渡しませんよ。たとえ死んでも」

「はっはっはっ。死に行くものが何をほざくか」

「あれは加賀乃夕蘭が雪島華に正統に後継させたものです。美都総合商社が独占できる物ではないのです」

「正論だな。だがあれは月下美人ではないわ。確かに雪島華は昔の夕蘭のようにすばらしい才能を持っておる。禍々しいほどの才能をな。それぐらいわしにも分かる。だが、違う。あの月下美人は違うのだ」

「あなたの求める月下美人はもうどこにも存在しない。加賀乃夕蘭はもういない」

「そんなことはない。わしが上演権を手に入れ、この美都で甦らせる」

「誰が演じるというのですか」

「珠美優香がいるだろう」

「優香くんが演じれば、優香くんの月下美人になりますよ」

「そうはならない。加賀乃夕蘭のあの素晴らしい月下美人を甦らせるのだ。あれこそが月下美人だ」
悠河は秀樹に哀れみを覚える。どこまでも決して手に入らないものを追い求める姿はもはや亡者であった。

加賀乃夕蘭は死んだ。

その時、父の月下美人は消えた。

たとえ何度自分がそう説いたとしても、父には理解できないだろう。

悠河は暗闇から父を見下ろす。昔はあんなに威圧された大きな背中が、丸く小さく見える。そんなことを感傷的に思う自分に悠河は違和感を覚えた。

「今まで後継者として育ててくれたことに恩義はありますので、一応感謝を申し上げます」

「フン。それが人に感謝する態度か」

「他人に心を許すなと教えたのはあなたです」

「はっ。確かにそうだな」

「僕はあなたに月下美人を渡すつもりはありません」

「もうすぐいなくなるお前が言っても説得力に欠けるな」

「華の月下美人を守り抜きますよ。たとえ死んでも」

「ふざけたことを。あんな小娘に上演権を管理できるわけがない」
「ええ。ですから僕は全身全霊をかけて僕のやり方で守ります」

「何だと」

「あなたには決して手出しをさせない」

「どういうことだ、悠河」

秀樹は車椅子の肘掛けを強く握りしめ、宙を睨みつける。

「ですから、あきらめて下さい」
「悠河!」

「あなたの月下美人は、もうすでにあなたの中にあるのです。お父さん。それに気づいて下さい――」


ここまでだった。後は暗闇に吸い込まれるように悠河は消えた。

果たしてこれが、華への攻撃の歯止めになるのかわからなかった。
説得に応じるような人物ではないことは重々承知している。

それでも何も言わずに死んでいくことはできなかった。

少しでも秀樹に楔を打ったことになれば…暗闇に漂いながら悠河は願った。