――コンコンッ


その時、軽いノックの音がした。
看護師ならばすぐに入ってくるはずだが、その来訪者はこちらの返答を待っているようだった。


――こんな朝にここを訪ねてくるなんて、誰?


華は不安そうに紫音を見上げる。紫音も警戒するような鋭い目でドアを見、カツカツカツ…とヒールの音を鳴らしてドアへ向かう。

「どちらさまでしょうか。こちらは面会謝絶となっておりますが」
しばしの沈黙の後、やわらかな女性の声がする。

「紫音さんかしら…? わたくし。常陸宮美妃です」

「美妃さん!?」

華は目を見開き、立ち上がる。引き戸をするりと開け、美妃が入ってくる。紫音は一歩後ずさり、美妃を見つめた。

「まあ、紫音さんも華さんもそんなに驚いた顔をなさって。…怖い顔といった方がよろしいかしら」
揃えた指を口元に当て、美妃はくすくすとおかしそうに笑う。
いつも悠河の隣では楚々としたドレス姿であった美妃が、今日は飾り気の無い淡いブルーのワンピースを着ていた。

「美妃さん、どうしてここへ…? ご連絡いただいておりましたかしら」

紫音が気を取り直し、ややきつめの口調で問う。そんな紫音の様子をまったく気にしない様子で美妃は特別室を見回す。カーテンに隠された向こうからは、変わらず規則正しい呼吸器の音が聞こえる。
「わたくし、悠河様のお見舞いに来たのではありませんわ。華さん、紫音さん。あなた方お二人に会うために参りましたのよ」

美妃は微笑をたたえ、楽しそうに告げた。


――美妃さんは一体何を言い出すのだろう。


漠然とした不安が華を襲う。私はさんをずっと傷つけてきた。そんな私に会いに来るなんて。
また何か言われるんだろうか。あの時は最後にあんなに穏やかそうに『悠河様を愛しなさい』と言われたけれど、嘘だったとでも言うのだろうか。そして、また私に何かするとでも…?

それまでドアのそばに立ち尽くしていた紫音がソファへ歩み寄り、華の前にすっと立つ。まるで、美妃から華を守るかのように。
美妃はそれを楽しげに見つめる。
「あら、いやだ。わたくし、華さんをいじめに来たわけでもありませんわ」

華は凍りつく。

『わたくし、本気であなたを殺そうと計画したんです…』

先日の美妃の言葉が頭に響く。怖い。

「では、何の御用でしょうか」

紫音はびしりと返す。眼鏡の奥から鋭い目つきで美妃を見つめる。
「お二人にお願いをしに参りましたのよ」

「…お願い?」

紫音は訝しげに美妃の表情を伺う。
「ええ。昨夜、わたくしの夢の中に悠河様がお一人でいらっしゃいました。そして、紫音さんが華さんの個人事務所を立ち上げるつもりだとおっしゃいました」

「一体何のことでしょうか。美妃様」

紫音が身構える。現在においても美都内部でさえ動けずにいるというのに、ここで美妃つまりは常陸宮グループに事務所設立の邪魔をされたら、それこそ致命的だ。

こわばる紫音と華の二人に、美妃はやわらかな笑みをたたえた視線を投げかけた。そしてふわりと頭を下げる。

「…お願いがありますの。ぜひ、わたくしを華さんの事務所の重役に加えていただけないでしょうか。そうすれば常陸宮グループが全面的に協力いたしますわ」

紫音と華が直立不動で固まる。次の瞬間、病室に二人の声が響く。
「ええっ?」 

「は…?」





悠河は暗闇で横たわっていた。いつもの社長室は消えた。微かな光が照らすだけの漆黒の空間。


――やはり無理をしすぎたか。

昨日、いつも感じる右手のぬくもりが前触れも無く突然消えた。
普段はぬくもりを感じると徐々にこの世界の輝度が上がり始め、夕焼けが明るくなる。しばらくするとドアをノックする音が聞こえ、華が訪れる。
だが、昨日は右手のぬくもりが突然ぷつりと切れた。
昨日…あれは昨日でいいのだろうか。時の感覚が無い自分には日付も分からない。

華の身に何かあったのだろうか。具合でも悪いのか、それとも何か事件にでも巻き込まれたのか。それとも早速美都側が何かを仕掛けたのだろうか。嫌な想像ばかりが膨らむ。焦燥だけが増長していく。かといって自分には確かめるすべも無い。

前夜華を抱いた後、明らかに自分と自分を取り巻くこの閉じられた世界が劇的に変化した。ダイレクトに力が吹き込まれた感じであった。社長室の窓からもまぶしい西日が差し込む。自分の体から疲労感が消え、久しぶりに体が軽いと感じた。
しかし、逆に華は白い体をぐったりと横たえ、俺の腕の中から眠ったまま儚く消えてしまった。
今までも考えていたが、俺の存在はもしかしたら現実の華にかなりの負担を強いているのではないだろうか。
こちらの世界ではいつも元気な様子だったが、さすがにあの時は疲労の色が隠せなかった。やはり華の身に何かあったのだろうか。
どうにも動けない自分がいらだたしい。

何か華のために動けないか。

華のくれたこの力で彼女を守るためにできることがあれば…。


――可能性にかけよう。この軽い体ならばできるはずだ。華のために自分の力を全て使ってでも。




悠河と華に素直に懺悔ができたことは、美妃の心に今までにない安定を与えた。
その夜、久しぶりに穏やかな眠りが訪れ、夢の中で美妃は蘭の花のあふれる温室にいた。
温かな春の陽光の降りそそぐ温室では、シンビジウムやデンドロビウムが次々と花を咲かせていた。咲き終わった花を切り、支柱と固定用の針金をきれいにはずす。そして新しく伸びてきた花芽に支柱を立てる。いつもは使用人にさせるこうした作業もなぜだか楽しい。美妃は手が汚れるのもかまわず一つ一つの鉢を丹念に見ていった。
一番のお気に入りの甘い香りのカトレアの花を切ろうと手を伸ばした時、ふと、後ろに人の気配を感じた。

「美妃さん」

振り返ると、悠河が一人で立っていた。

「あら、悠河様。今日はお一人なんですの? 顔色がお悪いように見えますけど」

「…ええ。やはり一人はちょっときついですね」

「どうぞ。こちらにおかけになって」

美妃は花の蜜でべたつく手を洗うと、棚の脇のベンチへ悠河を誘った。
悠河は先日華と現れた時よりもどことなく影が薄い。ベンチに深く腰をかけると、悠河は膝の上で手を組みつらそうに頭を下げた。温室の外では春の突風が木々をざわめかせる。悠河は一息吐くと、顔を上げ背筋を伸ばした。

「時間がありませんので、単刀直入にお話いたします」

「何でしょうか」

悠河は心を決めるように一度口を閉じた後、まっすぐに美妃に告げた。

「華の個人事務所の取締役になっていただきたいのです」

「……え?」

「僕の義父が月下美人に異常なほど執心しているのは有名な話でしょう。とにかく手に入れようと、そのためならばどんな汚い手でも使いました。そのせいで加賀乃夕蘭(かがのゆら)と修身秀爾(おさみしゅうじ)は潰されました」
悠河は疲れたように深く呼吸する。

「華が月下美人に決まった時、僕は一生をかけて彼女の月下美人を守ると決めました。しかし、今はこんな状態です。今までは上演権を華と僕の共同管理として守ってこれましたが、僕が死んだら上演権は父に奪われ、華は演劇界から追われてしまうかもしれない。僕はなんとしてもそれを阻止したい。そのために紫音に華の個人事務所を立ち上げてもらい、華に託すことにしました」

「…そうなんですの」

「だが、従姉の紫音だけでは弱すぎる。僕と懇意の各界の重鎮に役員になるよう働きかける指示を出しましたが、もし父が本気で圧力をかけたら…紫音もろとも潰されてしまう…」

「…それで、わたくしの常陸宮の名前が欲しいのですね」

「ええ、そうです。…ひどい男でしょう。あなたにこんなことを頼むなんて」

「…そうですわね」

「でも、あなたしかいないんです。常陸宮がバックに付いてくれたら、きっと華の月下美人は守れます。そして次世代に受け継がれていくことでしょう。もしも父の手に渡ったら…」

悠河の輪郭が先ほどよりも色を薄くする。

「…父は自分の追い求める加賀乃夕蘭の月下美人以外は認めません。現に華の月下美人を決して認めようとはしません。加賀乃夕蘭以外は父にとっては邪道なのです。父が上演権を手に入れたら、きっと加賀乃夕蘭の月下美人を再現しようとするでしょう。そしてその加賀乃夕蘭を真似た舞台ですら父が受け入れられなくなった時には、月下美人を永遠に封印し、葬り去るかもしれません…」

一気に言うと悠河は息切れしたように、何度か肩で呼吸を繰り返した。

「…わたくしでよろしいのですか? 祖父の名前でなくとも?」

「もちろんです。僕は美妃さんにお願いしたいのです」

「なぜわたくし…? 未遂とはいえ、わたくしは華さんを殺めようとしましたわ」

「あなたは月下美人の素晴らしさをよくご存知です。それに、僕は自分の信じる人に華を託していきたい」

「悠河様は…わたくしを信じて下さいますの…?」

「ええ。先日美妃さんの胸の内を聞かせていただいてから、ずっと考えておりました。今のあなたならば、華を託すことができる、と」

「買いかぶりすぎですわ」

美妃は頬を染め、ゆるゆると首を振った。

またひとしきり風が木々の枝を大きく揺らす。温室の中には春の太陽から明るい光が降りてくる。やわらかな温かさが体を包む。
美妃はしばし目の前の鉢から滝のように小さなピンクの花をしだれさせるシンビジウムを見つめていた。そして両手を膝の上でぐっと握り締めた。

「…わたくしにできるのならば。華さんの個人事務所の取締役をさせてください」

「美妃さん…!」

「世間知らずのわたくしにできることなど限られております。でもこの常陸宮の名前が欲しいと仰るならば、どうかお手伝いをさせてください。わたくしから祖父に協力を頼みましょう。そのくらいしかできませんが…」

「…ありがとうございます」

悠河は深々と頭を下げた。美妃はそんな悠河を穏やかに見る。

「お芝居の楽しさを教えてくださったのは、悠河様と華さんですわ」

頭を下げ続ける悠河に微笑みかける。

「わたくし、悠河様に連れてっていただく前はあまりお芝居を見ることはありませんでした。日本舞踊やお琴をやっておりましたから、そちらの方面ばかりで。華さんの月下美人、素晴らしかったですわ…。月下美人に例えられる伯爵夫人の織り成す幻想的な世界に引き込まれました。あんな素晴らしい舞台が消されてしまうなんて…。まして華さんという稀有な才能が消されてしまうなど、あってはなりませんわ。悠河様の代わりなどわたくしに務まるか分かりませんが、やらせていただきたいと思います」

美妃のおっとりとした物腰に、まっすぐな力がこもるのを悠河は感じた。心強い協力者をまた一人得ることができた。悠河は感謝を込め、美妃をみつめる。

「ありがとうございます。僕がいなくなった後、華のことをよろしくお願いします」

「悠河様、そんな。いなくなるだなんて…。まだよくなる可能性だっておありでしょう…?」

「いえ。もうそれはありません」
悠河の影が一段と薄くなる。美妃の胸に不安と悲しみが押し寄せる。
太陽が雲に隠れ、一時陽光が弱まる。すっと薄暗くなる温室の中にどこからか涼しい風が入ってきた。

「あなたにはとてもご苦労とご迷惑をおかけしました。先日きちんとお詫びできなくて申し訳ありませんでした。」

悠河は再度深く頭を下げた。

「あなたのおかげで、安心して行けます。感謝します」

「そんなこと、仰らないで」

美妃は悠河に手を伸ばす。その手は悠河の腕を通り抜け、ベンチの冷たい背もたれに触れる。美妃ははっと手を引いた。

「華を頼みます。美妃さん。ありがとう」

悠河は今まで美妃に見せたことのない心からの笑顔を向け、そして消えた。