華はホテルに戻ることなく、特別室の隣の個室で昏々と眠った。
閉じられた世界の中でのそれは、華の体力を奪い疲労をさらに蓄積させた。
ようやく夕方遅くに目覚めると、傍らに心配そうな麗の顔が見えた。

「紫音さんに聞いたよ。ずいぶん無理しているようじゃない」

「…ううん。大丈夫」

「何度か倒れたって? 看護師さんも心配してた」

「…ごめん。麗。でも、今は悠河のそばにいないとダメなの」

「わかるけどさ。わたしはあんたの体も心配だよ」

「…ごめん」

麗は膨らんだ紙袋を華に差し出した。

「これ、営業部と宣伝部のみんなから。華に元気出せって」

「なに?」

華が少し体を起こして見ると、中には大振り大福とたい焼きがぎっしり入っていた。

「やだ。みんな。私のこと食い気ばっかりだと思ってるんでしょ」
華は屈託の無い笑みを浮かべて、うれしそうに一つ大福を取り上げた。包みを取って一口かぶりつく。

「おいしい…!」

「そりゃ、みんなで一番おいしいお店を探したんだからね」

「…ありがとう」

華は俯いた。麗はそんな華の頭に手を置き、少し乱暴にくしゃくしゃとなでる。

「華が一生懸命なのはわかるけど、あんまり無理しなさんな」

「うん」

どことなく華は変わった。変わりもするだろう。最愛の人が突然の事故で瀕死になったのだ。この短期間のうちに華はどれだけやるせない思いをしたのか。

今華は、一人でこのつらい運命に立ち向かっている。自分は離れたところから見守ってやるしかできない。麗は少し寂しさを感じ、これが親離れ子離れの感覚なんだろうかと苦笑した。

「紫音さんから聞いたんだけど、夢の中で悠河君に会ってるんだって?」

「え? …うん」

「ちゃんと思いが通じたんだね」
「…うん」

「よかったね。華」

「…うん」

華は大福をもう一口頬ばる。そうでもしないと、どんどん涙が込み上げてきそうだった。ふんわりとした皮のやさしい甘さの大福は、疲れた華の体をやわらかく包み込んだ。

麗はしばらく華と過ごした後、

「これから営業なんだ」

と言い帰っていった。
華は点滴を外してもらい、自由の身となった。華はすぐに悠河の眠る特別室へ向かう。

「悠河。ごめんなさい。遅くなって」

いつものようにベッドの脇に座り、手を握る。
昨日の夜のことで、何か少しでも悠河に変化はあったのだろうか。呼吸器につながれ眠る悠河をじっと見つめる。

変わりない顔色、

変わりなく上下する胸、

変わりなく温かな手、

変わりなくただ横たわる体。

先ほど自分の点滴を外しに来た看護師にそれとなく聞いてみたが、やはり

「変わりないですね」

と一言言われただけであった。
私の力は悠河に伝わらなかった。やっぱり昨夜の賭けはダメだったんだ。
今日になったらよくなってて、明日になったら少し動けて、明後日になったら起き上がれるようになる…なんて、そんなこと夢だった。
微かな希望も絶たれ、津波のような悲しみが華を襲う。
ずっとあの世界で悠河のそばにいられるのならば、もっと力をあげられるのに。目覚めたくなくても、朝には起きなければならないこの状況がもどかしい。

こうしている間にもどんどん時は過ぎてゆく。

悠河の命の砂時計がさらさらとこぼれ落ちる。

どうにかして時間を止めることは、時間を戻すことはできないのか。

あの事故を無かったことにはできないのか。

私はこのまま悠河をただ見ているしかないのか。

何か手段はないのだろうか。

私の力を全てあげられる手立ては。

誰か、教えて。なぜ悠河が死ななければならないの? 

なぜ悠河なの? なぜ?

お願い、私の大切な人を奪わないで――


握っていた悠河の手にそっと唇を寄せる。長い指。整えられた爪。
この指で触れられたのは夢だったのだろうか。夕日の中で見た甘くて哀しい白昼夢。


――悠河に会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。
華は悠河の長い人差し指にやわらかく口付け、目を閉じた。



いつものように華はベッドに頭をもたれさせたまま眠ってしまった。
夜の見回りに来た看護師が煌々と明かりのついた特別室へ入ってくる。篠崎の伝言を知っている同僚は見て見ぬ振りをして立ち去るのだが、その看護師は聞いていなかった。

「あら。こんなとこで眠ってたら風邪ひくわよ。起きなさい」

肩を揺するが華は一向に目覚める気配はない。勢いよく揺すられたせいで、悠河とつないでいた華の手がはらりと落ちる。

「しょうがないわね」

その大柄な看護師は「よいしょ」と掛け声をかけて華を抱き上げ、ソファに横たえた。
華はぴくりとも動かず、穏やかな寝息を立てて眠っている。看護師は付き添い用の毛布を華にかけ、部屋の電灯を落とし去っていった。