いつもと同じ夕暮れの社長室のドアの前に立つ。華は深呼吸をした。


――コンッコンッ


いつものように悠河は待っていてくれた。

「おいで」

そのやわらかな低い声を聞いただけで、体の芯が熱くなるのがわかった。
華は駆け寄り、いきなり悠河の体を抱きしめた。悠河は戸惑ったように華の肩に手を置く。華は決心が鈍らないうちに告げる。

「今日は私の行きたいとこに悠河を連れていってもいいか?」

悠河が片眉を上げる。

「どこだ?」

「内緒。ね、目をつぶって」

悠河が目を閉じたのを見届けて、華は一心に思い浮かべる。自分の部屋を。
悠河は先に目を開け、訝しげに言った。

「ここは、君の部屋じゃないか」
「そう」

昨日と同じ明るいオレンジ色の光がカーテン越しに部屋に差し込む。


――怖い。本当は。自分がどうしたらいいかもわからない。果たしてこれが悠河を救うことになるのかもわからない。拒絶されるかもしれない。
でも、今じゃなければ、きっとできないから。


華は悠河の腕にそっと手を置き、睫毛を伏せた。震える唇で告げた。

悠河はそんな華を最初は信じられない思いで見つめた。社務所での長い夜が頭をよぎる。
華は再び告げる。今度は熱く潤んだ黒い瞳が悠河を捉える。そのまま視線が絡み合う。

悠河の瞳には迷いが揺れる。

マヤは恥ずかしさも戸惑いも捨てた。

悠河の腕を掴み、必死に懇願した。何度も何度も切ない願いがその唇からほとばしる。

悠河はそんな華をこらえるように見つめていた。拳を握る手が震える。
が、ついに耐え切れず、力の限り華を抱きしめ、狂おしいほどの思いで唇を合わせた。


そして悠河は自分の胸の奥底で固く閉じられていた扉を開け放した――


夕日が淡く差し込む華の狭いベッドで、二人は肌で存在を確かめ合った。
お互いの腕の中で見つめ合った瞳の中に、お互いが映っている。深く口づければ吐息が混ざり合う。前髪と前髪が触れ合うだけで、その距離の近さがたまらなくなる。
今この腕の中にいる存在は、果たして夢なのか、それとも現実なのか。この確かなひとときは、現実とは言えないのか。

呼応する鼓動、
高く甘やかなあえぎ、
唇から洩れる掠れた声、
汗ばむ肌、
固く握り合った手。


これを夢だというのか――




病室のブラインドの隙間から春のやわらかな朝日が差し込んできた。
華はゆっくりと目を開け、ベッドに凭れかけていた重い頭を持ち上げた。人工呼吸器から規則正しい空気を送り込まれ、静かに上下する悠河の胸を見つめる。

こちらへ、現実へ戻ってきてしまった。あのまま、あの夢の中にいられたらよかったのに…。
息が出来ないほどの悲しみが華の胸を刺す。
私は昨夜、悠河に抱かれた。この胸の中に包まれた。あの閉じられた世界で。確かに、抱かれた。

でも、ここにいる悠河が現実。

ここで手を握り、じっとそばにいるだけの私が現実。

今の私の体にはきっと何の変化も無い。

あんなにたくさんの桜の花を私の体に降らせてくれたのに。

あんなに狂おしく抱かれたはずなのに。

涙が頬を伝う。

でも、抱かれた。私は確かに、悠河に抱かれたんだ――



コンッコンッ…


ノックとほぼ同時に紫音が入ってくる。
華はあわてて涙を拭き、立ち上がろうとした。スーツ姿の紫音の姿が斜めに見え、そのままぐらりと反転する。

「華ちゃん!!」

紫音が駆け寄る。

華はそのまま床にくず折れ、蒼白な顔の上に茶髪を波打たせたまま意識を失った。