気づくと、華と悠河は明るい西日の差し込む華のマンションにいた。いつもの社長室ではないことに華は動揺する。

もしかしたら、美妃のところでショックを受けたせいで、無意識に自分の部屋へ逃げてきたのかもしれない。
悠河は室内を見回す。見慣れない部屋。

「ここは…どこだ?」

「ああ…。私の部屋」

過去のこととはいえ、美妃にあのようにはっきりと敵意を向けられ、華の心は恐怖と不安に震えた。さらに、最後こそ悠河を自信をもって愛するようにと言われたが、長い間いかに自分の存在が美妃を傷つけてきたかを思い知らされた。
たとえ美妃のせいではないと言われても、その事実は押しつぶされそうなほど重くのし掛かる。
華は悠河の手を握ったままうつむく。

瞼に影が差す。

悠河は何も言わず華の手を引き、生成り地のソファに座らせ、自分も隣に座る。固めのソファは体が沈むことなく心地よく体を支えた。悠河はずっと握っていた手をほどき、軽く肩を抱いて華を自分にもたれさせる。

「あの…悠河、手を離しても大丈夫?」

「ああ、君のフィールドは俺にとって特別らしいな」


――また、そんな喜ばせるようなこと言って…


悠河がこうしてそばにいるだけで華の心は次第に和らいでいった。
二人は何もしゃべらず、お互いの体温を感じながら並んで座る。
窓からは春の穏やかで明るい西日が差し込み、窓際に置かれたポトスの緑を鮮やかに浮き立たせる。
ほとんど何もない部屋だった。フローリングの床にそのまま置かれたテレビと、オフホワイトのラグの上に小さなテーブルとソファ、キッチンのすぐ前に二人がけの小さめのダイニングテーブル。隅に置かれたカラーボックスには数冊の台本が無造作に入っているだけ。元々物を持っていない華は部屋を飾ることもなかった。

「君の部屋はシンプルだな」

「悠河のお屋敷と比べないでちょうだい」

「比べられるか」

「…そうなんだけど」

頬を膨らませる華に悠河は笑う。カーテンを通した西日がやわらかく影を作る。

「美妃さんがあんな風に私のことを思っていたなんて、全然知らなかった」

華はぽつりと言った。少し心が落ち着き、飽和状態だった頭の中からこぼれ落ちる言葉。

「俺のせいだ。君のせいではない」

「そうは言っても…」

「俺が君と美妃さんの二人を苦しめた。責めを受けなければならないのは俺だ」

悠河の厳しい声が華の背中から直に伝わる。
美妃さんも、悠河も、私も…好きだっただけなのに、何でこんなにこじれちゃったんだろう。
もし時間を戻すことができたら、どんなにいいだろう。
あの時、梅の谷でちゃんと告白してたら。悠河を好きだと気づいた時にちゃんと言えてたら。もう今となっては遅すぎる。
だから、今、言わなければならないことは、今、ちゃんと言わないと。

「私、あの事故の日の夕方、ひどい頭痛に襲われたの」

突然何を言い出すんだ、と悠河の片眉が上がる。

「がんがんして起きていられないくらいで。夜、悠河の病院へ行って悠河の手を握ってたら、いつの間にか頭痛が消えちゃった変でしょう」

「そうだな」

「もしかしたら頭痛が起きた時って悠河が事故に遭った時間かもしれないって思ったの。それともただの偶然かな…?」

「どうだろう」

華の言いたいことがよくわからず、悠河はあいまいに答える。

「月下美人の中に出てくる『魂のかたわれ』って本当にあるのか、自分はそんな人と巡り会えるのかわからなかったけれど」

華はためらうように一息おいた。
「悠河が私の魂のかたわれだったらいいなってずっと思ってた。私、あの頭痛は、魂のかたわれの悠河が突然あんなことになったせいなのかな…って勝手に思ってた」
華の声がの胸の中に響いて聞こえた。うつむく華の頬が薄く染まる。膝の上に揃えられた両手。肩にわずかに力が入っているのがわかる。

悠河はあの梅の谷でのひとときを思い出した。夢のような幻。あれを華も同じように感じていたのだろうか。

「俺も君がそうならばと思っていた。梅の谷で…君を魂ごと抱きしめた覚えがある。俺の夢かもしれないが…」

「あ…もしかして、あの小川で…? 悠河も…?」

「ああ。華もか」

「うん…。やっぱり、本当だったんだ」

華がほっとため息をつく。

「以前美妃さんは婚約披露パーティーで仰ってたよね。悠河が魂のかたわれだって」

「……」

美妃の名前に悠河の動きが止まる。あの頃、まだ美妃は自分に盲目的に恋をしていた。悠河自身は自分の運命を受け入れ、すべてあきらめ絶望していた。華をこうして手の内に抱くなど考えられないことだった。

「私、悠河と美妃さんってとてもお似合いで、幸せそうで、私なんか入る隙がないと思ってた。そもそもこんなチビの私を悠河が相手にするわけがないって思っていたし。何度もあきらめようともした。でも、あきらめきれなかった…」

華は悠河を見上げる。

「さっき美妃さんは悠河の隣に立つのは自分じゃないって言ってました。私、信じていい? 自分が悠河の魂のかたわれだって。私…ずっとこのまま悠河のそばにいたい。本当に私でいいの…?」

華は黒い瞳を揺らす。悠河は肩にまわした手に力を込める。

「…あたりまえだ。華。君でなくては困る」

華の心が喜びで震えた。悠河の背に腕を回し、思いっきり抱きしめる。悠河の体温を感じて溶け出す甘美な思いが全身に広がっていく。

悠河もまた華をしっかりと抱きしめた。その温かさ、その匂い、手のひらに感じるやわらかな茶髪、華奢な肩。すべて自分のものにしたいと切実に思う。
悠河は華の頬に触れ、自分を見上げさせる。悠河の視線と華の視線が絡み合う。微かに唇を震わせて華は瞳を閉じた。

最初は軽く触れるだけのキス。いつものように、悠河は慣れていない華をいたわるような優しいキスを落とす。

しかし今は華への思いが溢れ出し、悠河は唇を合わせているうちに自分でもコントロールが効かなくなる。次第に悠河は奪うように深く唇を合わせた。
華は戸惑ったように身を引こうとした。が、悠河がしっかりと抱きしめているので動けない。華は悠河の背に回した手でぎゅっとスーツを掴み、体を離そうとした。悠河の腕は華のその細い体を強く拘束し、決して緩めない。
深い口付けは止まらず、ついに華は唇の隙間から苦しげな声を漏らした。
悠河がはっと身を離す。

「すまない…」

「……」

華は息を乱したままうつむいた。
怖かった。今まであんなキスをしたことがない。キスの途中から自分の体の奥に湧き起った切なく熱い感覚が華を戸惑わせた。どうしていいかわからなかった。こんな時、自分がいかに子どもかを知らされる。
もし素直に身をまかせることができたら、悠河は途中で止めたり、こんなに心配そうに自分を見ることもなかっただろうに。本当は、もっと、悠河を知りたいのに…。
「ごめん…なさい」

「何であやまる」

「私、こんな子どもで…」

悠河は一つ息を吐くと、やわらかく華を抱きしめた。

「いいんだ。俺が悪かった。華」
華は激しく首を振る。茶髪が波のように揺れた。


――早く大人になりたい。


悠長なことを言っていられる時間はもうほとんど残されていないのに。どうしたらいいんだろう…。
悠河を全身で感じながら、華はその幼い自分をもてあました。