――Pururururururu……Pururururururu……Pururururururu……

それは、深夜の一本の電話で始まった。
――私の携帯だ。こんな夜中に誰だろう…

華は、暗闇の中で青白く光る携帯電話を寝ぼけ眼でつかんだ。
”紫音さん” という文字が、目を刺すように浮かび上がる。

――何でこんな時間に……?

「はい…」

「華ちゃん、遅くにごめんね」

「あ、お久しぶりです。何なんですか、こんな夜中に…?」
「あのね、華ちゃん、落ち着いて聞いてね」

いつもは冷静な紫音なのに、携帯電話を通した荒い声から切羽詰った感じが染み出す。

「悠河が、交通事故に遭って」

ザッと音を立てて華の背中から全身に寒気が走る。無意識に携帯をぎゅっと握った。その手が震えだす。

「もう……ダメかもしれないの」
暗闇のはずなのに、華の視界が真っ白になる。まるで映画の字幕のように、文字が浮かび上がる。 『ダメかもしれないの…』華はその文字を凝視した。頭の中までは入って来ない。
――何を言っているのだろう。悠河が、事故? 悠河が?

「…ダメって…何が、ダメなんですか…?だって、悠河、この間久しぶりに会った時は、変わりなかったじゃないですか。ダメって…?」

「華ちゃん」

しんと響くアルトの声が呼びかける。ちゃんと聞いてちょうだい、と。

「悠河、夕方に交通事故に遭われて意識がないの。意識不明の重体。事故で頭を強く打って頭の中で出血してしまったの。今は美都病院の集中治療室に入院しているんだけど、お医者様の話では、意識が回復する可能性は1%もないそうよ……」

紫音の声がどこか遠くから薄い膜を通したように華の耳に届く。
ぐるぐると聞きなれない単語が頭を回る。

――意識不明の重体って…集中治療室…1%もない…。死ぬの…? 悠河が…? あの、悠河が? もうダメって…何…?
沈黙を続ける華に紫音はそのまま言葉を続ける。

「今すぐに病院へ来てちょうだい。お願い」

「……でも…何で、私が…? 私なんかが行くわけには…。婚約者の…美妃さんが…いらっしゃるでしょう……?」

「美妃さんは来ないわ」

紫音はぴしゃりと言い放つ。いくぶんいらだちも含んで。

「どうして……?」

「美妃さん自体がショックで倒れてしまわれたのと」

紫音は一瞬言いよどむ。

「…常陸宮の方では、死にゆく者などに大事な娘はやれない、ってことらしいの」

「そんな……」

「政略結婚なんて、そんなものよ、華ちゃん。きっとこの分じゃ数日以内に婚約解消、常陸宮との提携話も立ち消えになるんじゃないかしら…」

「……」

「さ、そんな話は後でゆっくりするから。華ちゃん、お願い。悠河についててあげて」

「でも…何で…私なんか…。元・恋人の私が悠河に付き添うなんて…そんなこと……」

おろおろと繰り返す華に、紫音は大きなため息をつく。華の反応はおおかた予想していたが、緊急事態の今はそれが苛立たしい。悠河と華の二人の障害であった美妃がいない今、そんな迷いは無意味なのに。紫音は電話の向こうの華を叱りつけたくなった。
紫音は心を決め、目を閉じる。悠河本人がこうなっては、仕方が無い。

――もう私から告げるわよ、悠河。

「本当は私が口出しすることではないんだけど、こういう時だから許してちょうだい。…あのね、華ちゃん。悠河は、あなたのことを愛してたのよ。ずっと前から」

「は……?」

紫音さんは何を言い出すんだろう。そんなことあるわけない。何だか受け止めきれないことが多すぎて気持ちが全然ついていかない。
「悠河はあなたと出会ってから、あなたを愛しずっと見守ってきたわ」

そんなこと信じられない。

「これは、私の想像でしかないけれど…。あなた、悠河のことずっと好きだったでしょ?」

紫音は単刀直入に言った。
それは、確かな事実だった。必死に隠していたけれど、知られていたんだ。
華は携帯を握り締めたままこくりとうなずいた。

「ね、華ちゃん。悠河はきっとあなたにそばにいてほしいと思うの。私には今、あなたを悠河の元へ連れて行くことぐらいしかできないわ。何より、悠河にはパパしか家族がいないし、使用人が付き添うよりは、あなたのほうがいいでしょう。あなたに手伝ってほしいの。ね、華ちゃん。こんな機会はもう二度とないのよ…最後の時なの。わかる?」

「はい…」

「お願い。急いで数日分の着替えをまとめて、マンションの外で待ってて。私がすぐに迎えに行くわ」

「あ、えと、今日は麗のアパートに泊まっているんです…」

すでに麗は起き上がり、枕もとの電灯をつけて華を心配そうに見ていた。何かただならぬ事態が起っていることだけは伝わっていた。

「どうしたの?」

咀嚼できない言葉で華の頭は一杯になっていた。何からどう話していいかわからない。携帯を持ったまま、華は麗に話し始める。

「紫音さんから、で。悠河が、交通事故で…意識不明の重体で…美都病院に入院してて、もうダメだって……」

「悠河君が、交通事故!?」

「うん…。それで、紫音さんは私が悠河に付き添ってくれって」

「何で華に?」

「私もよくわかんないんだけど…」

麗は要領を得ない華から携帯を奪う。

「華と代わりました。青木です」
「ああ、助かるわ」

紫音は手短に事情を話し始める。麗は端から理解していく。華はそれをぼんやりと見つめていた。

「はい…はい…ええ…。え? ああ、そうだったんですか。ええ、それは。はい。はい…わかりました。うちには華の着替えはほとんどないんで、マンションに連れて行きます。ここからだと、5分くらいで着きますから。じゃあ、マンションの前で待たせます。はい。では」

麗は華にコートを着せ、急かした。

「ほら、呆けてないで。華。行くよ」

今日は営業部の仲間が麗の部屋に集まり、新しい企画成功の打ち上げをしていた。あまりお金もないから、皆で料理を持ち寄りわいわいやっていたのだが、夕方過ぎから突然華が頭が痛いと言い出した。

「めずらしいね。華が頭痛だなんて」

「ごめん。麗。何だか急に…がんがんして…」

「いいよ。寝てな」

宴会を続ける部屋の隅で、華は布団を被って寝ていた。
――変だな…風邪でもひいたかな。あれ?明日はOFFだったよね?じゃあ今日はこのまま麗に泊めてもらおう…。
麗もこのところの疲れがきたのかと、そのまま華を寝かせておいたのであった。
二人は黙ったまま夜道を歩く。
華は頭痛と混乱で飽和状態となっていた。麗の歩く後をとぼとぼとついて来る。時折吹く穏やかな夜風が華の茶髪を揺らした。
麗はそんな華を時々振り返りつつ考えていた。