ロスト・クロニクル~前編~


 強く抱き締められていることにより、マナの身体全体に痛みが走り彼女の顔が歪んでいく。

「エ、エイル様」

 囁くような声音で、名前を呼ぶ。

 しかし、相手の反応はない。

 身動ぎして逃れようと試みるが、力の無いマナがエイルの腕から逃れることはできなかった。

 今はエイルの胸元に顔を埋め、懸命に耐えていく。だが、悪い気分はしていない。相手の一定のリズムを刻む心音が、心地よかったから。一方マナの場合は早鐘のように打ち鳴らされ、一気に顔は紅潮していった。

 今、異性に抱き締められている。

 それも、相手は――

 現在の状況は、いらぬ妄想を招く。

 温もりが気持ちいい。

 温かい。

 当初オドオドとしていたマナであったが、エイルの体温の心地良さに、気分が安らいでいく。

 相手は、自分が働いている屋敷の主人の息子。勿論、相手に特別な感情を抱いてはいけない。

 それでも、心が揺らぐ。

 恐る恐るマナは震える手で、エイルの頬に触れてみる。その瞬間、指先から体温が伝わってきた。

(……エイル様)

 本当であったら懸命に身動ぎし逃れないといけないが、マナはこの状況が長く続けばいいと思う。

 誰かが来ないことを願う。

 永遠に時間が止まればいいと思う。

 はじめて経験する感情に、マナの心臓が激しく締め付けられる。そして、どうすればいいかわからない。

 ただ、このままの体勢で過ごす。

 その時、再びエイルが身じろぐ。

 それにより、マナの身体が開放された。

 急に苦しさがなくなったことにホッとするが、同時に寂しいという感情が湧いて出てくる。彼女にとって先程の出来事は、夢物語の中に登場するようなものであった。下手したら一生体験できない素敵なもので、先程の出来事を思い出すと心臓は鼓動し締め付けられてくる。