ロスト・クロニクル~前編~


「有難うございます」

「いえ、お礼を言われるほどのことではありません」

 この大地に生きている生き物は持ちつ持たれつで生活しているので、井戸水は分け隔てなく行き渡るべきだという。その言葉に、マナは大きく頷く。これは若い神官の言葉であったが「生き物」と「生きる」という両方の意味合いが詰まった、素晴らしい言葉であった。

 しかしそれ以上に「若い二人」という部分に、重点が置かれていた。何より、この二人は他人が見ても実に微笑ましい。それにより、若い神官は「問題は無い」と、判断を下したのだ。

「他に、何か御用はありますか?」

「それでしたら――」

「いえ、大丈夫です」

 傷を治療するには、それ専用の傷薬を用いらないといけない。若い神官は、マナの傷に気付いていた。その為、傷薬を持ってこようと考えていたが、エイルは寸前でマナの言葉を遮った。

 一瞬「何故」という言葉が、神官の脳裏に過ぎった。しかし、その意図の追求はできない。女神に仕え生きることを選択した者。自身の好奇心を満たす不用意な質問は、してはいけない。

 質問をした瞬間、今までの修行が全て無駄になってしまう。それだけ「我を殺す」というのは、難しい。二十代後半で神官という地位に就いているが、修行不足は隠しきれないでいた。

「そうですか。御用がありましたら、他の者に申し付けてください。きっと、力になってくれます」

「有難うございます」

「それでは、これで――」

 軽い会釈と共に、若い神官は立ち去っていく。その後姿に感謝の気持ちを込めた眼差しを向けるマナであったが、掌から伝わる痛みにどうしてこの場所に来たのか改めて認識する。

 時間の経過は、確実に傷の状態を悪い方向へと持っていく。その証拠に、溢れ出た血は掌全体を赤く染めていた。流れる血は、一向に止まる気配を見せていない。浅い傷と認識していたエイルであったが、その診立てが間違いだったと気付く。その瞬間、慌しく動いた。

 エイルは井戸の中に釣瓶を落とすと、力任せに引き上げる。そして大量の水で、掌の泥を洗い落とす。一般的に井戸水は川の水より温かいとされているが、冷たいことには代わりない。傷口に沁みマナはか細い悲鳴を発し苦痛を訴えるが、汚いままでは傷が悪化してしまう。